大河ドラマの楽しみの一つに「紀行」がある。ラストのわずかな時間だが、美しい映像と音楽が旅心をくすぐる。平成24年2月12日に放映された『平清盛』紀行では、平忠盛ゆかりの忠海(ただのうみ)が採り上げられ、「耳無地蔵」が紹介された。今日はそのレポートである。
竹原市忠海東町四丁目の辻地蔵似心堂に「耳無地蔵」がある。地元の方の丁寧な清掃により、気持ちのよいお参りができた。
素朴ながらお姿がとても美しい。しかも平氏ゆかりの由緒あるお地蔵様である。どのような関わりがあるのか、JR忠海駅に掲示してある説明板を読んでみよう。
“清水の耳なし地蔵”の由来
1178年春、平清盛は、高倉天皇に入内させた徳子(清盛の子)の安産祈願のため、厳島神社に向かった。しかし、船旅の途中、激しい風に遭い、徳子の出産に胸騒ぎがした清盛は、安産を祈るため、石工に地蔵を彫るように命じた。 石工が耳を完成させる前に、徳子が元気な男の子(安徳天皇)を出産したため、耳がついていない地蔵をそのままの姿で祀った。 その地蔵が忠海の辻地蔵似心堂にある「清水の耳なし地蔵」といわれている。
1178年は治承二年で、前年には鹿ヶ谷の陰謀の発覚により後白河院との関係が悪化し、平氏政権は安定を欠くようになっていた。そんな治承2年5月24日、朗報が入る。高倉天皇の中宮徳子のご懐妊である。
徳子の父清盛は6月2日に福原から上洛、溢れんばかりの期待は隠すことができなかっただろう。同月28日には着帯の儀が行われ、11月12日に徳子は皇子を無事に出産するのである。同月16日に清盛はいったん福原に下向した後、26日には再度入洛し、この年のうちに親王宣下、立太子を果たすのである。
この間、6月17日に厳島神社に安産祈願の奉幣使を遣わしている。中山忠親の日記『山槐記(さんかいき)』治承2年6月17日条の一部を抜粋しよう。
今日被発遣奉幣使於安芸国伊都岐島島社(無先例、今度始也)、是中宮御産御祈云々(当五ヶ月、来廿八日可有着帯也)
おそらく清盛自身は赴かず洛中に留まっていたのではないか。そうであれば耳無地蔵の伝説は単に伝説にすぎないということになるが、皇子誕生を願う清盛の気持ちは、地蔵に耳が刻まれないままに祀られたことによく表れている。
こうして誕生した皇子はやがて安徳天皇となり、非業の死を遂げることになる。しかし、それは清盛の与り知らぬことだ。治承二年当時は前途が限りなく開けて見えたことだろう。耳無地蔵は、中宮徳子御懐妊当時の清盛の気持ちが目に見える形となった貴重な史跡である。
竹原の銘酒「誠鏡」の中尾酒造が、「忠海」ラベルの美味しい純米酒を出している。裏ラベルに次のように紹介されている。
名峰黒滝山のふもとに古くから海上交通の要衝として栄えた忠海。かつての船入地は埋め立てられてしまったが、一歩入れば江戸時代にタイムスリップしたような不思議な町です。
そう、海上交通の要衝として道の駅ならぬ「海の駅」として栄えたのだった。有名なのは、康応元年(1389)3月20日に足利義満の船が停泊したことだ。今川貞世『鹿苑院殿厳島詣記』にこう記されている。
夜に入てなを雨風おどろおどろしく成しかば、舟ども思ひ思ひにこぎわかれて御ふねははるかにさかりけるをもしらず。御舟を洲にをしかけてゆかざりければ、はし舟をめして、たゞのうみの浦と云所のいそぎはにあしふける小屋にやどらせ給ひける程に…
名峰黒滝山の中腹から忠海港とニ窓港、海を隔てて大三島を写している。足利義満は嵐の中、ここにたどり着いた。
「忠海」という地名には、もっと古い時代の伝説がある。やはりJR忠海駅に掲示されている説明板を読んでみよう。
“忠海町”の名前の由来
平忠盛(清盛の父)が1135年(保延元年)日宋貿易の航路である瀬戸内海の、忠海沖(当時「浦」)で海賊を捕らえた功績として、忠盛の二文字を分け、「浦」を忠海と、対岸の島である大三島を盛村と名づけたと伝えられている。
「盛村」は現在の今治市上浦町盛(さかり)である。「忠盛」を二つに分けて「忠海」と「盛(さかり)」とした。面白いことに忠海港と盛港を結ぶ大三島フェリーが就航している。
ただし、「忠海」の史料上の初見は『鹿苑院殿厳島詣記』だというから、実際には源平の時代には遡れないのかもしれない。しかし、平家とのゆかりを語り伝え地域の誇りとしてきたことには敬意を表したい。歴史は地域のアイデンティティの発生源なのだから。