本日から『柘榴(ざくろ)坂の仇討』(若松節朗監督、浅田次郎原作)の公開が始まった。中井貴一が彦根藩士で大老暗殺の仇敵を追う志村金吾、阿部寛が暗殺に加わった水戸浪士・佐橋十兵衛を演じる。柘榴坂は品川駅の高輪口にある坂で、グランドプリンスホテル新高輪などでは映画とのタイアップ企画として「ざくろロールケーキ」を提供している。AKBの木崎ゆりあが映画初出演というのも話題らしい。
明治の代となり、金吾はようやく十兵衛を見つけるも仇討禁止令が出たことを知る。それでも金吾はあきらめない。13年ぶりに二人は出会い…。いったいどうなるのか。史実ではないが、あってもよさそうな内容だ。
明石市人丸町の月照寺に「八ツ房の梅」がある。樹下にある石碑には「八房世姿の梅」とある。この樹の手前にも梅の木があり「八房梅霊樹」という石碑が立つ。
それほど古木には見えないが由緒があるのだという。説明板を読んでみよう。
元禄十五年(一七〇二)赤穂浪士大石良雄、間瀬久太夫の両人、当山へ参拝して、素願の成就を祈り大石氏は墨絵鍾馗の図を描きて奉納。
間瀬氏は持参の梅の鉢植え八ツ房を移植して祈願の印しとなした。この梅は紅梅で一つの花から七、八個の実を結ぶので八ツ房の梅と称せられ多くの人々に親しまれている。現在は三代目である。
元禄十四年(1701)3月14日の殿中刃傷事件発生時には、家老大石内蔵助、大目付間瀬久太夫は国許赤穂にいた。大石は城を明け渡すと、京都山科に滞在してお家再興を図る。翌年7月にその望みが絶たれると、京都円山会議で仇討実行を決し、準備を整えて山科から江戸へ下った。そして12月14日に吉良邸に討入り、本懐を遂げるのである。
大石と間瀬が参拝したのは、いつ頃のことなのか。神戸新聞明石総局編『あかし昔ばなし』(明石文庫の会)の「亀の水」を読んでみよう。
大石らが月照寺へもうでたのは元禄十五年(一七〇二)七月。二人は赤穂にある浅野家三代の菩提寺である華岳寺への最後の墓参を済ませて江戸へ向かう途中だった。月照寺は豊臣秀吉が三木攻めをする際、戦勝祈願をしたところで、二人はこれにあやかろうとしたのかも知れない。
このとき、大石は大願成就を祈って鐘馗(しょうき)の絵を奉納。間瀬は八つ房の梅を献じた。初代の梅は明治三十年のかんばつで枯れ、二代目も昭和四十年秋の台風で枯死した。現在の八つ房の梅は実生から育てた三代目。八つ房の梅が大きくなると、木のまわりに舟形をこしらえるが、、これは昔、海上の安全を期して、舟形の帆の先端の部分に常夜灯をつけ、灯台の役目をさせたなごりという。
実際に大石内蔵助が江戸に下向したのは10月、間瀬が大石主税の同行して江戸に下ったのが9月。ふたりそろって7月に参拝したかどうか。それでも、伝説が語る間瀬のセリフは彼の心情を語ってあまりある。
「大石様、今は木の植え替えにはむかぬ真夏。しかしわれらの大願が成就するならば、この梅も根づきましょう」
そして、大願は成就し、梅も見事に根づいたのであった。大石の描いた鐘馗の絵は、古い絵葉書では「人麿山月照寺宝物 紙本 鐘馗墨画 大石良雄筆」として確認できるが、今もあるのだろうか。
ちなみに、上の写真で八つ房の梅の向こうに立派な門が写っている。これは明石市指定文化財「月照寺山門」である。この門の価値はその来歴にある。元和四年に小笠原忠真(当時は忠政)が徳川秀忠から伏見城薬医門を拝領、明石城の切手門とし、明治6年に月照寺山門として移し建てられた。
月照寺の隣の柿本神社境内にも「八房梅(やつふさのうめ)」がある。
舟形にきれいに整えられている。この写真ではその美しさは分からないが、ネット上で梅の季節の画像を探すとよい。説明板を読んでみよう。
万ごこ路を神もよみして武士乃以の里はむすぶ八つ房の梅 秀一
元禄の世の赤穂浪士間瀬久太夫が主君の仇討をいのって植えたと伝えられ一つの花に八つの実を結びます。
献歌は伊東秀一という人だが私は存じ上げない。それよりも、近代デジタルライブラリーで閲覧した熊田葦城(宗次郎)『赤穂義士:日本史蹟』昭文堂(明44)の「間瀬久太夫遺愛の梅」には、次のように記されている。
久太夫赤穂を立ち退く際、日頃愛したる盆栽の梅を携へて人丸神社に詣で、其祠前に額づきて、心の中に、往古の神詠島かくれ行く船の如く成り玉ひし君が御跡、某の心中何どか惜しと思はざらんや、然らば神慮と同じ心なれば、あはれ神助を垂れて願望を叶へさせ玉へ、若し叶はずんば此梅忽ちに枯れなんと祈念しつゝ
惜(を)しぞとの歌にひかれて其船の
すがたあらはせ庭の梅ヶ枝
と詠みて社前の庭に植ゑ置きしに、忠臣の至誠神も納受ましませしにや、日ならずして枝葉繁茂し、終に船形の大木となれり
惜しぞとの歌とは「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」という人麻呂作と伝えられた古今集の歌である。朝霧の中を船が進む美しい風景なのに、船が島に隠れてしまって残念だ。それと同じように私は主君を失ったことが心から悔しい。だから、盆栽の梅よ、柿本神社の社前に植えたなら、人麻呂の歌にちなんで船の姿に育っておくれ。久太夫はそう言っているのだ。
梅は見事に船形の大木となったようだが、明治35年に枯死してしまった。今のは二代目である。柿本神社と月照寺、本当はどちらに植えたのか、両方に植えたのか。いずれにしても、京都円山会議で内蔵助に対し仇討を強く訴えた久太夫の気持ちがよく伝わるエピソードである。
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