冷えた体には温かいお茶ほど有難いものはない。湯呑を冷えた手で包んで、ゆっくりといただく。心まで温もっていくようだ。
茶の産地なら、牧之原、宇治、八女に行ったことがある。だが、お茶の史跡をレポートしたことはない。最近の記事は平将門ばかりなので、ここでティーブレイクにしよう。
坂東市辺田(へた)に「茶顛(ちゃてん)中山翁製茶紀功碑」がある。茶顛は中山翁の号である。
ここ茨城県にも茶の産地があったとは、浅学にして知らなかった。坂東市辺田はかつては猿島(さしま)郡であった。このあたりで生産されるお茶が「さしま茶」である。
調べると茨城県には三大銘茶があることが分かった。黄門さまが感嘆したという古内(ふるうち)茶、茶栽培の北限という奥久慈(おくくじ)茶、そして初めて海外に輸出された「さしま茶」である。
「さしま茶」の功労者が中山翁であり、写真のように功績を記した石碑が建てられている。翁の胸像は茨城県立農業大学校園芸部にあるというが行ってはいない。写真を見ると立派なヒゲの印象的なおじいさんである。中山翁とはとのような方なのだろうか。
碑文を読めばよいが、そばにある説明板が的確にまとめているようなので読むことにしよう。
茨城百景
茶顛中山元成翁製茶紀功碑
主なる事蹟
一、地方に物産を興し農村生活をうるおす。
此の地方に特に物産なきを慨いた翁は、天保五年、早くも製茶に着眼し、その栽培並に製法を研究して、広くこれを勧奨し以て地方の物産となし、又江戸まで販路を拡張して猿島茶の名声をあげた。
一、我が国最初製茶の輸出をなす。
安政元年三月神奈川條約(和親條約)成立後、翁は伊豆下田の玉泉寺に米国領事のハリスを訪ね、持参の猿島茶を提示して輸出を計ったが成らず、いよいよ安政五年六月通商條約が締結され、横浜港が開かれて外国商館が設置されるに及び、直ちに横浜に赴き種々畫策苦心の末、漸く米国第一番館ポール商会と商談成立し、製茶壱百壷(約三二〇〇キロ)の輸出に成功した。
これ我が国に於ける製茶貿易の最初であり、緑茶が生糸と共に我が国の外貨獲得に重要な役割を果した。
一、我が国茶業界に貢献する。
明治の時代に至っては東京府、千葉、茨城の委嘱を受け茶業の指導奨励に力を尽し、又輸出が旺盛を極めた結果粗製乱造の弊に陥いり、内外の信用を失墜したので、その是正を痛感した翁は、速かに全国を一丸とした茶業組合設立の要を当局に建言し、全国の同志六名と計り、茶業組合中央会議所の創立に盡力した。
茶顛翁顕彰會
ハリスに売り込みに行くとは、なかなかの積極性だ。すぐというわけにはいかなかったが、修好通商条約締結後に輸出に成功している。米国人が飲んだ最初の緑茶は「さしま茶」だったのである。
その後、茶は生糸に次ぐ主力輸出品に成長していく。2012年には2351トンが輸出された。明治時代の輸出量にはとても及ばないが、近年増加傾向だという。
テレビ東京系の『未来世紀ジパング』で2013年6月3日に放映されたのは「シリコンバレーで「お~いお茶」が沸騰!日本茶が、最強の輸出品!?」で、欧米で緑茶がブームになっている様子が紹介された。ヘルシーな点が好まれているようだ。
ついに120円台かというこのごろの円安進行は、日本茶輸出の追い風になるだろう。中山翁の先見の明には恐れ入るばかりである。
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