平将門は祟りだとか怨霊だとか、はたまた心霊スポットだとか、ロクでもない語られ方をしているが、すべて間違っている。彼は民衆とともに坂東独立国家を築くという夢を追った。それゆえに、将門公と尊称を付して呼ばれる英雄なのである。
坂東市岩井の総合文化ホール「ベルフォーレ」前に「平将門公之像」がある。平成6年、茨城県出身の一色邦彦氏の制作である。
平将門は乱を起こしたのである。戦場で活躍した武士である。その銅像ならば鎧兜の武者姿と考えるのが自然だ。ところが、この将門像は立烏帽子(たてえぼし)に狩衣(かりぎぬ)姿である。神主さんのような服装だが、当時の平服である。領内の民情視察を行っているのだろう。
興味深いことに将門には文学碑がある。それは将門を描いた海音寺潮五郎でも吉川英治でも、幸田露伴でもない。将門自身の作品である。
坂東市岩井の総合文化センター前に「平将門文学碑」がある。
新皇に即位した将門はライバル平貞盛を探していた。本人は見つからなかったが、貞盛と源扶(みなもとのたすく)の妻を拘束することができた。天慶三年(940)一月末である。場所は水戸市平戸町の吉田神社のあたりだとされる。ちなみに、源扶は乱の発端である野本の合戦ですでに討死していた。
将門は貞盛の妻を前にして次の歌を詠んだ。碑文の歌である。平将門生誕一一〇〇年記念事業推進委員会の説明板によって解釈も記しておこう。
よそにても風の便りに吾ぞ問ふ 枝離れたる花の宿りを
(遠く離れていても香を運ぶ風の便りによって、枝を離れて散った花のありかを尋ね求めることができます。同じように人々のうわさによって、散る花のように夫のもとを離れて寄る辺ないあなたを案じています。)
これに対して、貞盛の妻はこのように歌を返した。
よそにても花のにほひの散りくれば 我が身侘びしと思ほえぬかな
意味は「遠く離れていても花の香りが降りそそいでまいりますから、わが身を侘しいなどと思っておりません。」となろう。
この歌による問答には二通りの解釈がある。一つは説明板のように恋の歌と解することだ。花に寄せて、あなたのことを思っているよと伝えたのである。しかし、見事にフラれている。
もう一つは、恋の歌に見せかけて夫である貞盛の所在を聞き出そうとしている、という解釈だ。離ればなれになった夫貞盛の居場所はどこか、そう尋ねているのだ。しかし、見事にはぐらかされている。
その後結局、将門は貞盛を見つけることはできず、加えて藤原秀郷の登場となり、彼らの連合軍によって討ち取られることとなるのである。妻を捕えてから半月後の二月十四日のことである。
説明板は将門の歌について「戦乱の中に一粒の華を添えた」と評価するが、貞盛の妻から袖にされているので、侘しいのはむしろ将門のほうだといえよう。
近くに藤原秀郷ゆかりとも伝えられる寺院があるので紹介しよう。
坂東市岩井に浄土宗の藤田山道場院「高聲寺(こうしょうじ)」がある。
「高聲寺」とは珍しい名称だ。どのような由来があるのか、村上春樹『平将門伝説ハンドブック』(公孫樹舎)で読んでみよう。
この寺は高声念仏弘通の場といわれた。この高声に付会して、秀郷が陣を置いて高い声で指揮をとったとか、寺の開祖が夢に平将門が嘆くのを見て、その霊を慰めようと、寺を建てたところ、高い声で気合いをかけるのが聞こえたという。
秀郷も将門も高い声を発している。だから高聲寺という名になったのではなく、実際には寺名から伝説が創られたのである。高声念仏とは大きな声で南無阿弥陀仏を唱えることであり、弘通とはそうした念仏を広めることである。
坂東市岩井は将門の街である。将門の祟りと騒ぐ前に岩井を訪れ、ゆかりの地を巡るとよいだろう。おそらく帰路につく頃には「将門公」と尊称で呼んでいることだろう。
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