入会地の大切さが、どうも感覚としてつかめない。入会権の設定された土地は私の身近にないと思う。公有地である近くの公園は、自由に出入りできるので、よく利用させてもらっている。
しかしながら、入会地で薪炭牧草などを採取出来るかどうかには、生活が懸かっているのだ。公園感覚とはまったく異なることだけは私にも分かる。
浜松市北区三ヶ日町日比沢に「山論犠牲者供養塔」がある。
手前が供養塔で、奥の大きい石碑には「忍びつつ常磐に伝えん我が祖先」の句が刻んである。どうやら江戸時代の義民のようだ。『近世義民年表』(吉川弘文館)で調べてみよう。すると…
寛永19年(1642)6月 遠江国敷知郡旗本近藤氏領等日比沢・本坂・三ヶ日村山論
という項が立てられている。その典拠である神谷昌志『浜名湖・自然と歴史と文化』(明文出版社)と併せて経過をたどってみよう。
日比沢村・本坂村は、三ヶ日村が入会地に不法侵入したとして幕府中泉代官所(磐田市中泉)に訴えた。
代官所に取り上げてもらえないため、両村の庄屋は寛永19年(1642)6月に江戸の奉行所に訴え出る。
その結果、両村の全面勝訴となった。
しかし同年8月3日、越訴の罪で両村庄屋は男児とともに打首となった。庄屋の名は、日比沢村が作之治、本坂村が甚右衛門という。
代官所は庄屋の家(井口家と梅藤家)に対し弔意を込めて山林を与えた。
それから300回忌に当たる昭和16年(1941)、日比沢区の人々は村を守った庄屋の行為を義挙として顕彰したのである。それが供養塔だ。碑文を読んでみよう。
寛永十九年八月三日当村作之治甚左ェ門岩蔵外四童子山論ノタメ相果シヨリ三百年今日碑ニ録シテ其ノ功績ヲ偲フ
昭和十六年八月三日 日比沢区建之
越訴は当時としては重罪だったのかもしれないが、一家打首とはあまりにも過酷だ。そもそも代官所が訴えを取り上げなかったことに原因がある。行政の不作為で損害賠償を求めてもよい事案だ。代官所が山林を与えたのは自責の念にかられたということだろうか。
なお、当地の領主である近藤氏は遠江の名族である。新撰組の近藤勇の流派である天然理心流の流祖は近藤内蔵之助長裕という。内蔵之助も遠江の出身というから、何らかの縁があるのかもしれない。
ご子孫の方からコメントがいただけて、光栄に存じます。井口様のご先祖をはじめ先人のご労苦には、本当に頭の下がる思いがいたします。生活を守り社会をより良くしようとする思いを若い人たちにも語り継いでいきたいものです。お読みくださり、ありがとうございました。
投稿情報: 玉山 | 2016/06/07 22:59
井口家の者です、今も50年ごと日比沢区で慰霊祭をして頂いてます。しかし最近では、この話を知る人も、あまり居なくなってきています。
この様に載せてもらって本当にありがたいです。もっと地元の方々にこの悲話を知ってもらいお墓参りのついでに手を合わせて頂けたら幸いです。
投稿情報: りょう | 2016/06/07 02:20