視聴率が苦戦と伝えられる『花燃ゆ』だが、神戸市の湊川神社はコアなファンから注目されているらしい。というのも、ここには大楠公楠木正成の墓碑があり、吉田松陰が4度も訪れ拓本を購入して松下村塾に掲げているのだ。低視聴率だとか外聞を気にしては、大業は成し遂げられぬ。思う所を存分に描いてほしい。
楠木一族については、正成の子正行の墓、孫の正秀の墓、甥の和田賢秀の墓をレポートしたことがある。本日は別の孫をレポートする。
つくば市筑波の筑波山神社の境内に「楠木正勝の墓」がある。
正勝(まさかつ)は、父は正儀(まさのり)、祖父が正成(まさしげ)である。父の正儀は一族の中では長生きをしている。武運に恵まれていたのか、武将としての力量があったのか。北朝にも人脈を持ち現実的な身の処し方もできる人物であった。
正勝は一貫して南朝に尽くしたようだが、その事績には伝説的なものもある。説明板を読んでみよう。
この石塔「六角石造宝幢」は南朝の忠臣楠木正勝の墓と伝えられる。楠木正勝は、楠木正成の孫で、虚無僧の祖といわれる。現在の白雲橋近くにあった古通寺(普化宗)に来たと言われている。古通寺は昭和十三年(一九三八)の山津波により流された。
石造宝幢(ほうどう)とは石幢(せきどう)のことで、六角の他に八角のものもある。虚無僧(こむそう)は時代劇に登場するような深編笠を被り尺八を吹きながら行脚する人だ。その宗派である普化(ふけ)宗の日本での法脈は、法燈国師覚心を初祖として寄竹-塵哉-儀伯-臨明-虎風-虚無と続く。
この虚無が楠木正勝の隠遁後の法名であり、虚無僧の名の起こりなのである。正勝の墓は奈良県吉野郡十津川村武蔵にもある。こちらは「楠正勝の墓」と表示されている。村指定の有形文化財である。墓前では尺八の献奏会が開かれることもあるようだ。
また、正勝の墓は大阪の定専坊(じょうせんぼう、大阪市東淀川区豊里)にもある。正勝はこの寺に隠棲したのだと伝えられる。
さらには一説に、正勝は24歳の時左膝を負傷して出家し、やがて傑堂能勝(けつどうのうしょう、1355~1427)という曹洞宗の高僧となったともいう。
このように正勝の生涯は伝説的でよく分からないが興味深い。個人的に話の流れとして自然に感じるのは、十津川の山奥で再挙を図っていた、とするものである。
では、筑波山の石塔は何か。かつて近くに普化宗の古通寺があり、虚無僧が出入りしていた。その虚無僧の深編笠は石塔の六角の石材にどこか似ている。この連想から、石塔は虚無僧の祖である正勝の墓と見なされるようになったのではないか。
筑波山における信仰は、神仏習合の形態が長く続いたようだが、その中に虚無僧もいたとは、なかなか懐の深い山であることよ。
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