廃墟趣味という楽しみ方があるそうだ。ボロボロになったホテルや工場の建物を目にして何とも思わぬ人はいない。それがかつて病院だったとしたら、ホラーの舞台である。
荒廃した現状から、かつての繁栄を想像してみる。それをつくった人にとっては夢や希望であり、そこを利用していた人々にとっては生活の一部だったはずだ。当時の日常の風景が歳月を経て、今では非日常的な風景と化している。そうしたギャップを楽しむのが廃墟を探訪する動機だろう。
この連休中に、イコモスというユネスコの諮問機関が「明治日本の産業革命遺産」を世界文化遺産に登録するよう勧告した、との発表があった。廃墟だらけのあの軍艦島もリストに入っている。世界が価値を認めた廃墟である。やはり、見る目を持てば価値が分かるのだ。
鉄道ファンに廃鉄というグループがある。廃鉄は廃線、つまり廃止された鉄道路線の痕跡を訪ね歩き、かつての賑わいを偲んでいる。本ブログでも阪和貨物線を紹介したことがある。さらに、廃駅を探訪するというコアなファンも存在する。私がそうだというわけではないが、南海本線の旧深日駅について記事にしたことがある。
本日記事に取り上げるのは、鳴門市大麻町市場(おおあさちょういちば)の「阿波市場駅跡」である。高徳線の池谷(いけのたに)駅と勝瑞(しょうずい)駅の間に位置する。
写真では高徳線の誇る特急「うずしお」が通過している。列車は徳島行で向こうからこちらに向かって通過している。列車の左に見えるホームが駅跡である。乗車していればホームを通過しているなど、まったく気づかない。
阿波市場駅は大正5年(1916)7月1日に阿波電気軌道の「市場駅」として開設された。来年で百周年である。「阿波電気軌道」は地元名士の出資であったが、やがて経営に行き詰まり、大正15年に安田財閥の資本が入り「阿波鉄道」と改称された。
昭和8年には国有化され「阿波線」となり、駅名は「阿波市場駅」となった。その頃の様子を示す資料があるので転写しよう。鉄道省編『鉄道停車場一覧(昭和9年12月15日現在)』である。「阿波線」の駅について左から、駅名、駅間の距離、撫養からの距離、古川からの距離、所在地名 営業開始年月日の順に記している。
撫養(むや)、0.0、0.0、14.9、徳島県板野郡撫養町斎田、昭和3.1.18
蛭子前(ゑびすまへ)、1.0、1.0、13.9、同 同 同 南浜、大正5.7.1
金比羅前(こんぴらまへ)、1.5、2.5、12.4、同 同 同 木津、大正5.7.1
教会前(けうくわいまへ)、0.8、3.3、11.6、同 同 同 同、大正13.1.11
立道(たつみち)、1.9、5.2、9.7、同 同 堀江村姫田、大正5.7.1
池谷(いけのたに)、2.5、7.7、7.2、同 同 同 池谷、大正5.7.1
阿波市場(あはいちば)、2.0、9.7、5.2、同 同 同 市場、大正5.7.1
勝瑞(しようずゐ)、1.2、10.9、4.0、同 同 住吉村勝瑞、大正5.7.1
吉成(よしなり)、1.2、12.1、2.8、同 同 応神村吉成、大正5.7.1
阿波中原(あはなかはら)1.6、13.7、1.2、同 同 同 中原、大正5.7.1
古川(ふるかは)、1.2、14.9、0.0、同 同 同 古川、大正5.7.1
撫養駅は現在の鳴門駅、蛭子前駅は現在の撫養駅である。昭和10年の吉野川橋梁の完成と同時に、阿波中原駅と古川駅は廃止となり、「高徳本線」と改称された。阿波市場駅は書類の上では昭和46年に廃止されたが、実際に列車が停まっていたのは終戦前後の頃までのようだ。
開業から廃止までの約30年の間、多くの人々を見送り、そして迎えたことだろう。出征兵士の見送りがあったのかどうかは知らないが、さまざまな想いを抱く人々が往来したに違いない。
草に埋もれてしまいそうなホームの横を、今日も列車が、特急うずしおが高速で通り過ぎている。列車は停まることはないが、近くの居屋敷踏切を渡る旅人は少々足を止めて、近代日本の発展に鉄道が果たした役割について思いを致すのもよいだろう。
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