数年おきに法事で総社市の親戚とお会いするのだが、お供えに持ってこられるお菓子は、きまって平川雪舟庵の「雪舟もなか」である。ねずみの形をしていて美味、うれしくなること請け合いの銘菓である。
修行中の雪舟が涙でねずみの絵を描いたエピソードはけっこう知られている。場所は総社市井尻野の宝福寺だ。中3の遠足で行った。中学生が喜びそうな場所なら他にもあろうに、先生は何を意図して宝福寺を選んだのか。
それ以来、宝福寺には行ってない。宝福寺を含め、雪舟ゆかりの場所はたくさんあるが、今回はそのほとんどを省略し、生地と没地のレポートにより雪舟の生涯を駆け抜けたい。
総社市赤浜に「画聖雪舟誕生碑」がある。web上の地図にも「雪舟誕生の地」と明記されているので見つけやすい。
雪舟の生まれ育った総社市では、彼を「雪舟さん」と呼び、郷土の偉人として顕彰している。誕生碑の題字を書いたのは「蘇峰正敬」、言論界の巨人徳富蘇峰である。どのようなことが書いてあるのだろうか。読んでみよう。
吉備之州自古人材欝興近世則有若画聖雪舟何其盛哉按雪舟名等楊俗姓小
田雪舟其号也生于備中赤浜里幼嗜画十二歳入隣邑宝福寺為僧主僧初怒雪
舟耽画及識其奇才不復禁長遊京之相国鎌倉之建長両寺修宗学余力益覃思
于画中年求師明国無一適于意謂天地即我師跋渉四方喜絵林谷浦漵四時物
象明主奇之勅画礼部院壁其登四明山陞為天童禅寺第一座居五年帰朝住防
之雲谷寺暇則歴遊諸州後徙石州東光寺及此時雪舟道行精厳而画境又愈熟
初祖述如拙及周文其遊明私淑夏珪馬遠既而神遊独造別闢生面最妙于山水
清遒超散洗刷前人形似拘攣之陋為後人開幾多法門其図像用筆太簡而快雋
無比亦垂省筆之範世称画聖兼長于造園之術其於假山水特出一新機軸云永
正三年八月八日寂于大喜庵世寿八十七近者備人選国中五大偉人率励子弟
曰吉備公曰和気公曰源空栄西両法師而雪舟以画聖列其中可不謂偉哉嚮宝
福寺有碑藤井高尚撰文頼山陽書之至誕生之土則闕如焉赤浜里人深憾之興
鑽仰会今又将建誕生碑乞余文余曰善哉挙也土有偉人如此闡而揚之実郷人
之任而至栄係焉余亦備人也安得不喜而敍之乎哉
吉備はむかしから人材の宝庫で、近世では画聖と呼ばれた雪舟がいる。調べてみると、名は等楊、姓は小田、雪舟は号である。生まれは備中国赤浜村で、小さい頃から絵を描くのが好きだった。12歳で隣村の宝福寺に入った。絵ばかり描いていたので、はじめ師匠は怒ったが、その才能に気付き、それからはやめさせようとはしなかった。大きくなって京の相国寺、鎌倉の建長寺で学問を修めたが、ますます絵に対する思いが募り、中年になって師を求めて明国に渡った。しかし、意にかなう師は一人もおらず、天地こそ我が師なり、とあちらこちらと旅をして回り、山河の四季を描いた。明の皇帝はこれに感心して、礼部院の壁画を描かせた。さらに雪舟は四明山(しめいざん)に登って、天童禅寺の第一座となった。5年滞在して帰朝し、周防の雲谷寺に住んだ。時間を見つけては諸国を遍歴し、のちに石見の東光寺に移った。この頃、雪舟は精力的に旅に出て、その画境はますます円熟した。はじめ如拙や周文を祖と仰ぎ、渡明してからは夏珪や馬遠を模範としたが、やがて独自の道を進み、新境地を開いた。墨のにじみやかすれで表現した山水は清らかさと力強さに満ちている。先人からジグザグに描く技法を学び、後世の人のために多くの教えを残した。その図像は太い筆を用いて簡潔に描かれ、優れていることこの上ない。それは、省略して描く筆法の模範とされ、世の人々から画聖と呼ばれた。さらに、造園技術にも優れ、特に枯山水では新機軸を打ち出した。永正3年8月8日に大喜庵で87歳で没した。近頃、人々の先頭に立った吉備の五大偉人を選んだ。吉備真備、和気清麻呂、法然、栄西と並び画聖雪舟が選ばれた。その偉大さは言い表すことができないほどである。すでに宝福寺に顕彰碑があるが、これは藤井高尚が撰文して頼山陽が書いたものだ。しかし、誕生の地には顕彰碑がない。赤浜村の人々はこれを物足りなく思い、鑽仰(さんぎょう)会を発足させ今まさに誕生碑を建てようとしている。私は撰文を依頼されたので快諾した。この地には以上のようにすばらしい人物がいる。これを明らかにして地元の期待に応えることは光栄の至りだ。私もまた吉備出身者である。どうして喜びの言葉を述べずにおれようか。
撰文を依頼された「余」とは、漢学者の山田準(慶応3~昭和27)で、妻は山田方谷の孫である。昭和12年8月の文章で、画聖雪舟鑽仰会によって建碑されたのは昭和14年4月である。
少々強引に意訳したが、おかげで雪舟の生涯をつかむことができた。碑文の内容は狩野永納『本朝画史』(1693)に基づいている。これが通説とされていたが、雪舟(生年1420)の年代とは隔たりがある。
そこで、同時代の資料を探すと、雪舟の友人である了庵桂悟の『天開図画楼記』に「本貫備之中州人、姓藤氏」とある。だから、姓は藤原氏の可能性が高い。また、別の資料(『也足外集』)には、備中赤浜に「藤氏」が居住していたことが記されているので、雪舟の赤浜生まれは確実視されている。
かくして雪舟は、総社市赤浜生まれとして郷土の偉人となっているわけだ。ちなみに、総社市の運行するデマンド交通の愛称は「雪舟くん」である。
ところで、あまり知られてはいないが、岡山市域にも雪舟生誕の伝承地がある。
岡山市北区高松田中に「雪舟遺蹟碑」がある。
裏面に由来を記した碑文が刻まれている。「皇紀二千六百年明治節」とあるから、昭和15年に建てられたことが分かる。この時期に雪舟を顕彰する石碑が相次いで建てられたのには理由がある。
もちろんそれは、雪舟が国粋主義的な指向を有していたからではない。雪舟がその技量で明の成化帝を感嘆させたことに、国威発揚という意義を見出すことができよう。
しかし、それ以上に影響力があったのは、昭和8年から使用された『小学国語読本』巻6に、涙でねずみの絵を描いたエピソードが教材として掲載されたことである。雪舟ゆかりの地の人々は、今の大河ドラマに採り上げられる以上の誇りを抱いたに違いない。
何が記されているのだろうか。碑文を読んでみよう。ひらがなの部分は、原文ではカタカナである。
画聖雪舟禅師遺蹟碑由来
此碑より南へ約十間四方の地は従来画聖雪舟の古屋敷蹟なりと云ひ伝ふ此地は田熊家に伝
へ来りしものなりしか大正十二年長良川改修工事の為大部分削り取られ河中に没し只此屋
敷の一角を留むるのみ備中集成誌に載する所の田中村雪舟屋敷蹟と伝ふるは即ち此地なり
田熊家はもと石見の住人にして権太左衛門信清の時備中に移り大森氏に仕ふ大森氏滅ひ此
屋敷に住す其子源太清定井山宝福寺に入り剃髪し後寛正年中明に渡り禅を極め画を能くし
雪舟と号す帰朝後諸国を遍歴し永正三年八月八日祖先の地石見大喜庵に寂す寿八十七此屋
敷蹟に数株の老松ありしか河川工事の際伐採せられ昔を偲ふに由なきも此地に立つて大観
すれば自ら眺望の凡ならさるを知る地既に霊あり人傑出つる宜なりと謂つへし友人佐伯蘇
岳君此遺蹟の湮滅を恐れ碑を建てゝ之を永く後世に伝へんと欲し余に文を徴し更に碑面題
字を嘱す仍て由来を記すこと如斯
ここでの「余」は「蘇峰徳富猪一郎」つまり徳富蘇峰である。「友人佐伯蘇岳君」とは蘇峰と同郷、熊本県出身の佐伯理一郎、産婦人科の発展に寄与した医師である。この両名がどのような経緯で建碑に関与したのかは分からない。
碑文の内容は通説とは異なっている。石見出身の田熊権太左衛門信清が備中田中村に住み、その子源太清定が雪舟となったという。諸国を遍歴した雪舟の最期の地は石見大喜庵であったが、そこは祖先の地なのだともいう。
内容には差があるが、二つの碑は指呼の距離にある。
碑のすぐ前にある長良川が岡山市と総社市の境界となっている。内容も住所も異なっているが、このあたりが雪舟の生誕地に間違いないだろう。
雪舟は旅に出て各地で写生をしたに違いない。そのうち『天橋立図』は最高傑作と呼んでもいいだろう。82歳頃の作品だという。
写真は、雪舟の構図とまったく異なり、傘松公園からの遠望である。逆さにすると「股のぞき」の景観となる。実際に股からのぞいて見ると、ボートの軌跡が飛行機雲に見えた、というか見えなかった。
観光パンフに「天橋立雪舟観展望休憩所」を見つけたが行ってはいない。眺望が『天橋立図』の構図に似ているから「雪舟観」という。とはいえ絵と比べると、もっと高い位置から鳥瞰的に描かれていることが分かる。
備中の生誕地にある二つの碑には、石見の大喜庵(たいきあん)で亡くなった、と記されている。大喜庵は益田市乙吉町にあり、隣接する墓地の「雪舟の墓」は市指定史跡である。また、益田市染羽町の医光寺には「雪舟灰塚」がある。史跡として整っており、説得力が感じられる。
また、亡くなったのは、山口市天花一丁目の市指定史跡「雲谷庵跡」だともいう。先述の友人了庵桂悟が雪舟の『山水図』に書き付けた追賛「牧松遺韻雪舟逝」「永正丁卯上巳前一日」「書于雲谷寓舎」が証拠とされる。
「永正丁卯」とは永正四年で雪舟の死の翌年である。了庵は雲谷庵に残されていた雪舟の絶筆に賛を書いたと考えらえる。文献的にかなり説得力がある。
生地は備中だと確定しているが、没地は見解が分かれている。さらに没地をもう一つ紹介しよう。備中芳井説である。益田や山口に比べると知名度で劣っているが、荒唐無稽な説ではない。
井原市芳井町天神山に市指定史跡の「重玄寺跡」があり、「雪舟終焉」と刻まれている。
どのような由来があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
天平の頃行基菩薩こゝに大月庵を設け弥勒菩薩を安置し天下泰平を祈願すと伝う足利時代丹波常喜寺住持近衛家出身千畝大和尚周竹禅師嘉吉元年義政将軍の請により足利家公方祈願所大月山重玄寺を開山す朝廷及び歴代将軍の帰依を得寺運隆昌末寺十八ケ寺を数う画聖雪舟等揚禅師当山に度々滞在し永正三年二月十八日この寺に寂す昭和三十年鐘楼門土蔵を残し寺院焼失す由緒ある数々の寺宝は芳井町歴史民俗資料館に保存す
「嘉吉元年義政将軍」とあるが、これは誤りで、嘉吉元年の将軍は足利義教である。開基となったのは足利義将で、尊氏の庶子である直冬の孫である。義将は足利氏の反主流で、当時この地に逃れていた。碑の後ろには「雪舟の墓」もある。
興味深いことに、没年は大喜庵と同じだが、命日が大喜庵が8月8日、重玄寺が2月18日と異なっている。この重玄寺を終焉の地とする説は、『東福寺誌』を根拠としている。京都の東福寺は雪舟にゆかりが深く、宝福寺や医光寺は臨済宗東福寺派である。関連記述を読んでみよう。
永正三年丙寅 二月十八日(八月八日イ)一説文亀二年 雪舟等揚備中大日山重源寺(石見益田大喜庵イ)に寂す、雪舟別に備渓齊、米元山主人、雲谷、揚知容の号あり 寿八十九(一説八十七)〔雪舟伝〕〔雪舟禅師の話〕
「揚知容」は「揚知客(ようしか)」の誤りである。知客は禅寺における接待係のような役職で、それほど高い地位ではない。雪舟が「四明天童第一座」と明国で高く評価されたことを生涯の誇りとしたのも、日本では禅僧として出世することがなかったからだろう。
『東福寺誌』は昭和五年発行で、異説も併せて丁寧に記述している。この重玄寺説の初見は、貞享元年(1684)の在田軒道貞『吉備物語』にまで遡ることができる。
雪舟は安芸の仏通寺に住し又大月重玄寺に移り住て永正三年に寂す。行年八十七也。
現在、重玄寺は臨済宗佛通寺派で、安芸の佛通寺はその本山である。重玄寺開山の千畝周竹は、佛通寺開山の愚中周及の法嗣であり、雪舟とも親交があったという。人脈からは雪舟の没地であってもおかしくない。
また、東京港国立博物館に狩野常信『山寺図(模本)』という絵があるが、すでに失われた原本は雪舟筆である。この山寺が重玄寺だという。風景が似ているというのが理由だ。
ただ、出羽の立石寺とも、美濃の楊岐庵とも、石見の勝達寺とも言われている。備中芳井の重玄寺を雪舟終焉の地とする説は、状況証拠はあるものの決め手に欠けていると言わざるを得ない。
歴史は謎があるから面白いのだし、異説が多いとゆかりの場所が増えるというものである。山口市や益田市を含め、雪舟ゆかりの自治体が「雪舟サミット」を開催し、既に14回を数える。芳井町は平成8年、井原市は平成22年に開催している。
せっかくだから、雪舟が修行した天童寺がある中国浙江省寧波市をメンバーに加えたらどうだろうか。本物のサミットはG8だったのが、ロシアと不和となりG7となった。中国のオブザーバー参加も今の情勢では考えられない。ここはやはり民間レベルの交流から始めたい。日中双方からリスペクトされる人物に、雪舟こそふさわしいのではないか。
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