今月3日の報道によると、東京都は11月19日を「備蓄の日」と決めたそうだ。来たるべき首都直下地震への備えは万全を期しておきたいものだ。やがて来るとはいえ、いつ来るか分からないのだから、今すぐにでも準備しておいた方がよいだろう。
それにしても、なぜ11月19日なのか。関東大震災は9月1日だし。聞けば、「1年に1度はびちく(19=いちく)の確認」という苦しい語呂合わせだそうだ。なんじゃそりゃ。「今(1)すぐ、い(1)つも、いく(19)らかの備蓄」でどうや。あんまり、かわらんな。
養父市大屋町山路(おおやちょうやまじ)に「山路の郷蔵」がある。安政四年(1857)頃に建てられた。地元では「ごうぐら」が転訛して「ぼうぐら」と呼んでいたそうだ。
和モダンな雰囲気のオシャレな建物である。創作居酒屋か和カフェか。いや、これは生き抜くための食糧を蓄える備蓄倉庫だったのである。
本ブログでは享保の大飢饉と天保の大飢饉についてレポートしたことがある。いずれも死者を追悼した史跡であるが、本日紹介するのは、来たるべき飢饉に備えた史跡である。
旧大屋町が小学生向けに作成した『大屋の歴史』という副教材がある。この中の「ひどかった飢きん」という節に、飢饉の記録が紹介されている。嘉永三年(1850)に口大屋(くちおおや)の農家が書いたものだという。
十年前(天保一一のこと)には、七、八月天気悪しく米実入らず。米は一四〇~一五〇目して、八月には三〇〇かして米はなし。
重左右門、夏梅重兵衛様小麦買入れ、殿様より大豆下さり、命をつなぎ、福王寺様寺二〇〇人ばかり飢(かつ)え死す。山路寺には三〇〇ばかり死すなり。とかく食われるものなれば、さはいおくものなり。
多くの人が餓死したことが分かる。このため、この地を管轄していた生野代官所は積極的に備蓄倉庫を設置した。備えあれば憂いなし。現代にも生きる防災の心構えである。
飢饉に備えた郷蔵は全国的に設置されたが、残存する例は少ないという。山路の郷蔵は防災の精神を語り継ぐ貴重な史跡と言えよう。ただ飽食と言われる今の時代、飢饉なんぞ起こりえないように思える。
そうだろうか。東京都が推奨する生活必需品の備蓄は、地震などでライフラインが途絶えた中での自宅生活を想定したものである。電気・ガス・水道が止まり、道がふさがり電車も走らない。物流がストップして店からモノがなくなるだろう。自宅から出ずして、どのようにして食べ物にありつけるのか。
なるほど、江戸時代には食料生産に支障が生じて飢饉となったが、現代人は移動手段が失われるだけで飢えてしまうのだ。飢饉は過去の出来事ではない。備蓄の日の語呂合わせを笑っている場合ではなかった。一年に一度は備蓄の確認をしようではないか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。