モンゴル帝国は日本に攻め込んだが神風か何かに撃退された。しかし今やモンゴル勢は我が国の相撲界を支配している。この前の五月場所では関脇の照ノ富士が優勝し、大関昇進を決めた。「照ノ富士」の四股名は38代横綱照国と63代横綱旭富士にちなむものという。
高梁市落合町阿部井谷に「金剛力熊ヶ嶽の墓」がある。平成元年に公募して選定した高梁観光百選の一つである。「熊ヶ嶽」が百選の標柱では「熊ヶ獄」となっている。牢屋の跡地ではない。
金剛力とは金剛力士像のように筋骨隆々で怪力の持ち主ということだ。熊ヶ嶽もそうだったのだろう。『高梁市史』に次のような伝説が掲載されている。
熊ヶ嶽は小瀬出身の力士で、大阪相撲の横綱であった。この横綱は余り強過ぎて、周囲からうらまれ毒殺されたという。その墓が落合町赤羽根にある。
なるほど横綱であったか。しかも、強過ぎて殺されるとは、これは事件だ。犯人は誰なのか。
しかし調べてみると、大坂相撲の横綱熊ヶ嶽その人自身が見つからない。歴史からも抹消されたというのか。
さらにリサーチすると、高梁市観光協会『高梁観光百選』というガイドブックで次のような詳細な記述を見つけた。
市内落合町阿部の高梁病院側道の道脇(廃寺跡地)に、延命地蔵石仏と並んで、高さ1.2m、幅35cmの墓碑で正面に金剛力熊ヶ嶽勇哲居士と刻んだものがある。側面左に八田部山(やたべやま)門弟、熊ヶ嶽喜曽右衛門(きそうえもん)、側面右に文政七甲申(かのえさる)歳閏(うるう)八月三日卒、年三十五とある。
地元の伝承によれば、小瀬(おせ)(落合町阿部)の出身で、大阪相撲の関取、指呼名(しこな)は熊ヶ嶽であったと言う。東京相撲博物館の文献によれば、文政(ぶんせい)元年(1818)番付表で、西前頭13枚目にその名が記述されており、文政6年まで江戸大相撲においても、活躍していた。
高梁病院は今のたいようの丘ホスピタルである。熊ヶ嶽は文政のころ活躍したという。ここに「横綱」という説明がないが、それもそのはず大坂相撲の初代横綱は、明治四年京都五条家から免許を受けた八陣(はちじん)信蔵である。もちろん江戸相撲の歴代横綱にもその名はない。
そこで、文政元年冬場所の番付を調べてみると、西二段目六枚目に「熊ヶ嶽」を見つけることができた。上から数えると西前頭13枚目となる。しかし0勝5敗である。次の文政二年春場所も0勝8敗と散々だ。
このころ最強だったのは、大関の柏戸(かしわど)利助であった。文政六年(1823)には五条家から横綱免許を授与されたが、権威ある吉田司家に遠慮して辞退したという。横綱不在が長く続いた時代であった。
こうしてみると、熊ヶ嶽は「横綱」でもなく、「余り強過ぎる」わけでもない。ならば、なぜ『高梁市史』が記録するような伝説が生じたのだろうか。
おそらくは、ここ高梁の地で小さい頃から怪童と呼ばれて育ったのだろう。やがて大坂や江戸で活動する相撲取りとなった。ところが35歳で早過ぎる死を迎える。
これを高梁の人々はどう理解したか。あの怪童は大坂に行って相撲取りになった。めっぽう強いらしい。まさに金剛力士じゃ、横綱じゃ。その熊ヶ嶽が簡単に死ぬはずがない。死んだのは、強さを妬まれて殺されたからに違いない。『高梁市史』が語る熊ヶ嶽の伝説は、このようにしてできたのだろう。
相撲番付には必ず出身地が記されている。出身地は情報として欠かすことができない。そりゃ応援するなら地元出身力士だろう。その意味で熊ヶ嶽は地元に愛された、いや今も愛されている力士なのである。
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