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和菓子と言えば、金沢に京都、そして松江である。いずれも日本情緒あふれる素敵な町だ。このうち松江の三大銘菓とは「若草」「山川」「菜種の里」のことで、私は「若草」をいただいたことがある。緑色の鮮やかな求肥菓子だ。
「若草」などは「不昧公(ふまいこう)好み」と呼ばれ、松江藩7代藩主松平不昧公が茶会で用いたというお菓子である。現在の松江のしっとりとした文化的イメージは、不昧公に発しているといっても過言ではない。
松江市外中原町の歓喜山月照寺に「不昧公廟」がある。
不昧という号は、禅の「不落不昧」に由来する。欲に惑わされないことを言うらしい。不昧公は、松平治郷(はるさと)といい、明和4年(1767)から文化3年(1806)まで藩主を務め、文政元年(1818)に亡くなった。歴代藩主の中で最も有名なお殿さまだ。
廟門は「大円庵(松平治郷)廟門」として、前回紹介した「高真院(松平直政)廟門」と並び県指定文化財となっている。高真院廟門が薬医門(やくいもん)なのに対し、こちらは写真のように向唐門(むかいからもん)形式なので、豪華に見えるのが特徴だ。
写真の奥に見える墓石には、「大圓庵前出雲国主羽林次将不昧宗納居士」と法名が刻まれている。「羽林次将」とは初代直政と同じく「左近衛権少将」のことである。
不昧公は18歳のとき、三世伊佐幸琢(いさこうたく)に入門して、石州流茶道を学んだ。藩の財政を立て直してからは、茶道具の収集や茶室の建立に力を入れ、茶に関する書も著している。
我が国では江戸中期からサトウキビの栽培がさかんになり、砂糖の使用が広まった。不昧公が茶に合う菓子を求めたのも、そんな時代の流れに沿ったものだ。
甘いものがお好きだったのだろうか。単に甘いをよしとせず、形、色合い、そして名称にもこだわり、高い精神性を菓子に求めた。それが「不昧公好み」というものであった。
好き嫌いは誰もが言うはずだ。不昧公の嫌いなものは何だったのだろうか。百目木剣虹『松平不昧言行録』(東亜堂書房、大7)の第二章逸話(57)を読んでみよう。
公の嫌はれし者は
朝寝、なまけ者、こざかしき道具屋、蜘蛛の巣、蜘蛛。
確かに、朝寝は損だ。なまけ者も困る。「さすがはお殿さま、お目が高うございます」こんなおべんちゃらを連発する茶道具商人はうっとうしい。
だが、蜘蛛の巣?蜘蛛? そりゃ気持ちいいわけでも爽やかでもないが、益虫だし、いいじゃん。だが、そこは人それぞれ。おそらく不昧公は生理的に蜘蛛がお嫌いだったのであろう。
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