『花燃ゆ』では、吉田松陰の刑死に続いて久坂玄瑞の自刃と、「今まで主人公らしき人がいっぱい出てきたけど、みんな死ぬんですよね」(籾井会長談)。次は高杉晋作の病死だ。そんなこと言っても、事実だからしょうがないじゃないか。
いっぽう、来年の大河『真田丸』への期待は高まるばかりだ。大坂の陣がクライマックスとなる、見ごたえのあるドラマになるだろう。あの名将真田幸村をあの名優堺雅人が演じることから、視聴率は心配ない。
さて、その真田幸村である。豊臣方の幸村が絶賛したという若武者の話をお届けしよう。徳川方で14歳の初陣を飾ったばかりの松平直政である。
松江市外中原町の歓喜山月照寺に「松平直政公廟所」がある。
まずは幸村VS直政の名場面から紹介しよう。『忠勇録』(兵林館、明28)「松平直政」の段である。
慶長十九年十二月四日のあした、越前の軍勢、加賀の兵と先を争ひて、真田幸村が城を攻めしとき、十三四歳の若武者、紫威(むらさきおどし)の冑をかろく着なし、黒毛の馬に打乗り、雨の如く射懸くる矢をかいくゞりて、真先に進む。真田きつと見て敵ながらもあつはれの若武者かな、名のらせ給へと云ひければ、大音あげて吾は越前秀康の三男、松平国松丸と答へも未だ畢(をわ)らぬに、真田いとゞ感じ入、虎は地上に落るより、已に呑牛(どんぎゅう)の気象ありとぞ承る、今よりかくおはしませば、御成人の後、必ずたぐひなき名将と為らせ給ふらんと、腰にさせる軍扇を取り上げて、他日の紀念(かたみ)にとて投与ふ。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、直政は幸村の守る真田丸に攻めかかった。初陣にもかかわらず勇猛果敢に戦う姿に幸村は感心し、「虎の子は生まれてすぐにも、自分より大きな牛を食い殺す気性を持っているが、この若者も同じだ。必ずや名将となるであろう」と腰にさしていた軍扇を投げ与えた。
軍扇は現代に伝えられ、松江城に展示されているという。来年の大河では、このシーンは描かれるだろうか。幸村の見込みのとおり、直政は寛永15年(1638)、出雲18万6千石の太守となる。松江藩主松平家10代の基礎を固め、領民から慕われたという。
月照寺には歴代藩主が眠るが、直政公の墓が一番大きい。上の写真の墓塔には「高真院殿前羽林次将歓誉一空道喜大居士」と刻まれている。羽林次将とは直政が左近衛権少将に任官したことを意味している。
直政の墓域の入口にある「高真院(松平直政)廟門」は、江戸初期の藩威を偲ばせる県指定文化財である。
注目したいのは「竹に虎」の彫刻だ。この意匠は「牡丹に唐獅子」と並ぶ定番だが、面白いことに門の向きによって虎の表情が異なる。写真では上が内向き、下が外向きである。外に向く虎は、外来の者を威嚇するかのように牙をむく。
月照寺は、直政公が生母月照院の冥福を祈って造立したものである。
境内の奥のほうに「月照院墓塔」がある。月照院は阿波の武将、三谷出雲守長基(ながもと)の娘で、名を駒といった。徳川家康の二男、結城秀康の側室となり、慶長六年(1601)に北国街道の栃ノ木峠の手前、中河内(なかのかわち)宿で直政を生んだ。秀康の越前入りの途中でのことであった。
父の三谷長基は、現在の美馬市穴吹町三島(三谷)の三谷城が本拠とされるが、よく分からない。要するに、血筋が人の価値を大きく左右した時代にあって、月照院が不利な状況に置かれていたことは確かだ。
だからこそ母は初陣の息子に、このように言ったのだった。上記『忠勇録』から引用しよう。
相構へてきたなびれて、人にうしろゆびさゝれ給ひぞ、御父は名将なれど、いやしきものゝ腹にやどらせ給ひしゆゑに、かゝる不覚もあれ、などいはれ給はん事、口惜しかるべき御事には候はずや、みづからいかに女なりとも、させる高名をもせさせ給はぬなど、伝聞侍らば、生て再び逢まゐらすべしとも、覚えず
卑怯な真似をして他人に後ろ指さされることは、決してしてはなりませんよ。お父上は名将だが、身分卑しき母から生まれたのだから、こんなぶざまなこともあるだろう、などと言われるのは悔しいことではありませんか。私はいかに女とはいえ、さほどの手柄を立てられなかったなどと伝え聞いたならば、生きて再び会うことはない、と思っています。
自らのコンプレックスをバネに、我が子を誇り高き武将に育て上げた。この母にしてこの子あり。松江のグレートマザー物語であった。
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