関東平野は治水の歴史である。試みにグーグルマップで航空写真を見るとよい。かつての川の流路や湖沼の痕跡が分かるだろう。水郷地帯はここかしこにあったのだ。
あの広大な平野で、いかに水を抜くか。為政者は洪水に頭を悩ませ、排水に知恵を絞ってきた。有名な事業では利根川の付け替え、失敗したが印旛沼の干拓も日本史の授業で聞いたと思う。
このたびの鬼怒(きぬ)川決壊は、浸水家屋が1万1000棟という未曽有の被害となった。行方不明者も一時は25人と伝えられたが、現在は15名である。
鬼怒川に併行して流れる川に小貝(こかい)川がある。この川は昭和61年に決壊し、4400棟を超える家屋が浸水する被害となった。国が管理する関東地方の川の堤防が決壊したのは、この時以来のことだそうだ。
常総市本豊田(もととよだ)の小貝川の堤防に「決壊口の跡」の碑がある。堤防の断面を表した形状である。
碑銘の上部に「決壊時水位YP19.347メートル」と示した銘板がある。YPとはYedogawa Peilといい、江戸川堀江の水量標の0を基準とした水位である。
碑の前に立ち、その時の水面と見比べて、本当にここまで水が来たのか、と信じられない思いがした。非常時には、普段の姿が一変することを肝に銘じておかねばなるまい。
どのような経緯で破堤に至ったのか。碑文には「想起久遠」という警句とともに、次のように記されている。
この地は昭和六十一年の台風十号により八月六日午前九時五十八分に決壊した場所決壊口跡である。
昭和六十一(一九八六)年七月三十一日、フィリッピンの東海上に熱帯低気圧が発生、八月一日台風十号となって北上し、四日午後九時大島の南南西で温帯低気圧に変わり房総半島を縦断し、関東地方北部から東北地方南部の各地に豪雨禍をもたらした。小貝川流域は六時間余り帯状の集中豪雨に見舞われた。祖母井三百二ミリ、中館三百八十一ミリ、黒子三百八十七・五ミリ、改良区の雨量計は二百六十六・五ミリを記録した。
改良区は直ちに豊田ほか八ヵ所の排水機場を稼働させ、内水排水作業を開始、区内の巡回監視体制を強化した。石下町役場も四日午後五時水防本部を設置、五日午前一時水防団警戒体制をとった。午前七時三十分、警戒水位三・六〇メートルを越え、午後一時二十分、過去最高水位五・〇五メートルを突破した。午後十時、水位上昇は一時止まったが、六日午前二時再び上昇し始め、同五十分ついに計画高水位五・五四メートルをも突破した。
午前七時五十分自然樋管脇で漏水を発見し関係機関に通報、水防活動を開始した。町でも午前八時災害対策本部を設置した。午前八時三十分破堤の兆候が現れたので豊田地区住民に避難命令を発す。同四十四分豊田機場も運転を停止し退避した。午前九時四十七分樋管脇の堤防が一部沈下、同五十八分五メートルにわたり破堤、次第にその幅を広げ、午前十時五十分には三十メートル、午前十一時三十分には七十メートルに、堤防は完全に決壊した。
濁流は本豊田、曲田を経て福二、三坂新田、沖新田、中山各集落の田畑あるいは住宅に甚大な被害を与えた。浸水家屋石下町住宅百五十一棟百五十一世帯、納屋百五十五棟。水海道市住宅百五十三棟、百四十八世帯、納屋三百二十棟。田畑の冠水石下町三百九ヘクタール、水海道市六百八十四ヘクタールに及び、出穂期の水稲は大幅減収か収穫皆無となった。その他畜産、住民の生活にも言語に絶する被害を受けた。
町災害対策本部は直ちに活動を開始、水防団をはじめ自衛隊、県警機動隊など官民一体の救助に並行して建設省も復旧作業を始め、九日午前八時粗締切りを終わり、十四日午前四時鋼矢板二重締切りを完了した。
ポンプ、電動機、付属設備が水没した豊田排水機場と土砂流で埋没し護岸損壊した排水路二百十七メートルの復旧は、大規模災害の認定のもと県営事業で施行し昭和六十二年五月に竣工した。翌六十三年三月豊田排水機場吐出樋管を自然樋管に統合して築堤し、ここに決壊箇所は完全に復旧された。
この決壊口の跡に、破堤前の堤防断面を模した記念塔を建立して被災の概要を刻し、後世への防災意識高揚の警鐘とすると共に水との闘いの出発点として記録にとどめるものである。
平成三年二月二十五日
この碑文は、八軒堀川沿岸土地改良区理事長と石下町長の名で記されている。時間を追うドキュメント風な文章で、緊迫感が伝わってくる。
注目すべきは「帯状の集中豪雨」である。今回の報道では「線状降水帯」という耳慣れない語が登場した。鬼怒川流域と重なるかのように発達した雨雲である。小貝川決壊の際も同じような状況だったことが想像されよう。
小貝川の場合は、幸いなことに人的被害がなかった。破堤の約1時間半前に避難命令が出されたことが幸いしたのだろうか。今回の鬼怒川決壊では10日に、危険を知らせる情報が次のように発せられた。
午前0時15分 氾濫危険情報
午前7時45分 茨城県に大雨特別警報
午前10時30分 三坂町8自治区のうち中三坂上、中三坂下の2地区に避難指示
午後0時50分ごろ 三坂町地区で決壊
午後2時55分 三坂町の残り6地区に避難指示
結果論で言えば、関係機関は10時30分の時点で、もっと広域に避難指示を出せばよかったことになろう。タイミングとしては適切に避難情報を出していただけに悔やまれる点だ。特に決壊地点のある上三坂地区に何らの避難情報も出されていないのが痛い。
ただ、情報は発信すればいいわけではない。いかに伝えるかが課題である。今回は日中だったから口コミで動けた人もいたが、夜間だったらどうすべきなのか。避難指示の防災無線が激しい雨音にかき消されることもある。手元に携帯ラジオを用意し、聞く態勢になっておくことが大切ではないか。
小貝川の「決壊口の跡」碑は、「後世への防災意識高揚の警鐘とする」と建碑の趣旨を述べている。同時に「水との闘いの出発点」だとも言っている。
そうなのだ。水との闘いは、まだまだ道半ばである。むしろ、ゴールはないと考えたほうがよい。碑文の表題を「想起久遠」とした撰者の思いを、私たちは今こそ受け留めなくてはならない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。