安倍首相の戦後70年談話は、ある意味、日本近代史の総括であった。要約すると次のようになろう。
日本は、アジア最初の立憲政治という政治の近代化によって、帝国主義諸国から独立を守った。日露戦争での勝利は植民地支配のもとにあった人々を勇気づけた。第一次世界大戦後の国際協調路線を歩んでいた日本は、世界恐慌後の経済のブロック化によって打撃を受けた。外交や経済の行き詰まりを力によって解決しようとし、満州事変、国際連盟脱退から戦争への道を進んだ。
我が国の歴史は世界恐慌が転機となり、戦争への道を歩み始めた。70年談話はそのように語っている。欧米諸国との関係に重きを置けば、確かに世界恐慌はターニングポイントだと言える。
しかし、談話では中国・朝鮮との関係史はほとんど語られない。日露戦争の勝利がアジアの人々を勇気づけたというが、朝鮮の人々を苦しめる結果につながったことには言及していない。首相談話は歴史のつまみ食いである。
そう批判するのは簡単だが、語ろうとする意図に合わせて、必要な史実だけを取り出すのは当然のことだ。すべての史実を網羅した歴史の語りなどありえない。
中国・朝鮮との関係で日本近代史を語ろうと思えば、首相談話とはまた違った歴史が描けるだろう。今回の談話は、語り手の首相にその意図がなかったということに過ぎない。ただ、一個人ならまだしも、我が国の首相の談話としてバランスを欠いているのでは、という批判はありうるだろう。
私が言いたいのは、自らの意図に合わせて史実をつまみ食いしたものが、歴史の語りだということだ。ならば逆に、無作為に与えられた史実だけを材料に、歴史を物語化することも可能ではないか。
史実と史実をいかにつなげていくか、歴史の語りに欠かせない作業である。こうした作業は歴史だけに留まらない。限られた情報から何を読み取り、どのように対処していくのか。それは、現代社会に生きる者が身に付けるべき能力に他ならない。
今日は、ちょっとした思考実験を試みよう。姫路のお寺に三つのモニュメントを訪ねる。これらを素材に、どのような歴史が語れるだろうか。今流行のAL(アクティブ・ラーニング)である。
姫路市地内町の船場本徳寺の境内には、「西南戦争」「全国巡幸」「第一次世界大戦」のモニュメントがある。
「西南の役石碑」は明治12年に建てられたというが、どこか前衛芸術のような配置である。かつては別の場所にあり、台座の上に奥の題額の碑が置かれ、手前の銘板は台座にはめ込まれていたらしい。
題額には有栖川宮熾仁(たるひと)親王の書で、「勁節厳風(けいせつげんぷう)」と刻まれている。激しい風にも決して屈しない。征討総督であった親王が称えているのは、激戦を戦った政府軍の戦没者である。
碑文から「鹿児島賊徒」の文字を読み取ることができる。西郷隆盛をはじめ、政府に対して武器を手に反乱を起こした鹿児島県の士族は、同胞でありながら「賊徒」と呼ばれたのである。
幕府を倒し廃藩置県を断行して中央集権国家を樹立した明治政府だったが、まだ足元は揺らいでいた。「賊徒」を平定した後には、言論による政府批判が強まっていく。民心は安定していなかった。
そこで明治政府が期待したのが「天皇」という存在である。現行憲法で天皇は「日本国民統合の象徴」とされているが、それは敗戦後ににわかに案出されたものではない。明治天皇のもとに人々の心を結集し、「国民」意識を醸成したのは、実に明治政府であった。
政府は、天皇が地方の公共施設や名望家を訪ねることを通して、慈愛深い君徳を備えた至高の存在であることを民衆にアピールしたのである。
明治天皇は六大巡幸が有名だが、その最後となる山陽道巡幸が行われたのが、明治18年7月26日~8月12日である。
「行在所」と大きく刻まれた石碑は、船場本徳寺が明治天皇の宿泊所となったことを表している。大正3年に建てられた。どのような様子だったのか、碑文を読んでみよう。
明治十八年夏車駕幸山陽道還幸之途次八月八日駐蹕於本院参議伊藤博文侍従広幡忠朝等扈従焉越九日黎明賜謁臣勝珍併寵賜紅白縮緬及金円本院之栄極矣後本院資該下賜品謹製打敷以宝蔵之今茲信徒山本瀧太郎請建碑於院内以永記皇恩之渥予深賛此挙乃叙一言
この寺に明治天皇がお泊りになったのは明治18年8月8日。お供として伊藤博文、広幡忠朝の名が見える。伊藤は天皇巡幸の推進役であった。9日早朝に住職は拝謁の栄に浴し、紅白のちりめんと金一封を賜った。後にちりめんは打敷(うちしき)に加工されたという。
巡幸においては、こうした拝謁と下賜が行く先々で行われた。至高の存在に接することのできた者は、その「皇恩」を御下賜品の保存や記念碑の建立によって、永く記憶しようとしたのである。
「皇恩」に浴した者は、天皇の赤子としての自覚が芽生え、その意識が日本国民を誕生させた。明治天皇は、まさに「国民統合の象徴」の役割を果たしたのだ。
国民統合の意識は、その後天皇の名によって行われた対外戦争の勝利によってさらに強められる。日清戦争、日露戦争、韓国併合を通じて、自らの国家を周辺国に優越する帝国だと自覚するに至ったのだ。
そこへ第一次世界大戦が勃発する。我が国はこれを「天佑」と考えた。欧米列強に比肩するチャンスとして積極的に参戦したのである。
本堂の裏にセメントで作られた「ドイツの城の模型」がある。第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵が、故郷を偲んで制作し、心の支えにしたものだという。写真では見えないが、「1915」の紀年も記されている。
連合国側として参戦した日本は、ドイツの拠点であった中国の青島を陥落させ、捕虜を日本各地に送った。姫路においては、ここ船場本徳寺と景福寺、妙行寺が、大正3年(1914)11月から翌年9月まで、捕虜収容所に充てられたのである。
ここに収容されたのは、主にオーストリア=ハンガリー帝国海軍の軍艦「カイゼリン・エリザベート」の乗員だったという。とすると、ドイツの城はオーストリアの城だったかもしれない。ネットで画像検索すると、ホッホオスターヴィッツ城が似ているようだが、どうだろう。
日本は捕虜の扱いにおいて国際法を遵守し、規律は比較的緩やかだった。手作り感に満ちた城の模型を見れば、故郷を語りながら手を動かす捕虜と、それを笑みで見守る日本の監視兵の姿が想像される。
我が国は軍事的貢献によって発言力を増し、捕虜の取扱いで国際的な信用を高め、大戦終結後には、国際連盟の常任理事国となっていく。世界の一等国へと成長したのである。
まとめよう。3つのモニュメントからは、我が国が国内的に統一を確立して、天皇を象徴とする国民国家を形成し、欧米諸国と対等な立ち位置を模索する姿を描くことができた。日本近代史のポジティブな側面である。
城の模型が作られたのは、今からちょうど100年前だが、同じ年に我が国は中国に「二十一か条要求」を突き付けている。その後の日中関係史を想起すれば、これは重大な失策であった。欧米列強からは「人道」国家として一目置かれる裏で、中国からは「覇道」国家として信用を失っていくのである。
同じ時代でも、選ぶ素材によって語る歴史は異なる。首相談話もそうだが、人の語る歴史を聞く際には、どのような史実を取り上げているのかに注目するとよい。語り手の意図が見えてくるはずだ。
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