「日本三大ピラミッド」を紹介しよう。オカルト好きな方なら、葦嶽(あしたけ)山(庄原市)を思い浮かべるだろう。ちがう。そんな話はしない。
私が今回ピラミッドとするのは、ピラミッドのように見える“自然の山”ではなく、ピラミッドのように積み重ねた“人工物”である。今日ピックアップしたのは堺市の「土塔(どとう)」だ。あとの二つは奈良市の「頭塔(ずとう)」と赤磐市の「熊山遺跡」としたい。古代エジプトには及ぶべくもないが、いずれも古代日本の建造物である。
堺市中区土塔町に「土塔」がある。国指定史跡である。
幾何学的で美しいが、これは平成21年に復元された姿である。いったい、これは何なのか。いつ誰が何のためにという基本事項が知りたい。説明板を読んでみよう。
土塔は、堺出身の奈良時代の僧、行基が建立したとされる四十九院のひとつ、大野寺の仏塔です。平安時代に書かれた「行基年譜」には神亀4年(727)の起工とあり、鎌倉時代の「行基菩薩行状絵伝」(重要文化財)にも、本堂・門とともに「十三重土塔」と記された塔が描かれています。発掘調査によって土を盛り上げた一辺53.1m、高さ8.6m以上の十三重の塔で、各層には瓦が葺かれていたことがわかりました。また、「行基年譜」の記述と同じ「神亀四年」と記された軒丸瓦も出土しています。現在の姿は全体を盛土で保護し、十二層まで復元したものです。
奈良時代の有名な僧、行基が建立したことが分かる。後に菩薩と称せられた行基も、養老元年(717)には次のように朝廷から排撃されていた。(『続日本紀』巻第七、養老元年4月23日条、書下し)
まさに今、小僧行基ならびに弟子等、街衢(がいく)に零畳(りょうじょう)して、妄(みだり)に罪福を説き、朋党を合せ構えて、指臂(しひ)を焚き剥(は)ぎ、門を歴(へ)て仮説(けせつ)して、強ひて余り物を乞ひ、詐(いつわ)りて聖道と称して、百姓を妖惑(ようわく)す。
最近、行基という坊主と弟子たちは、ちまたに群れ集まって、みだりに因果応報を説いている。徒党を組んで、身を焼き皮をはぎ、家々をまわってまちがった教えを説いて物乞いし、これを聖道だと詐称して民衆をだましている。
僧侶の活動が朝廷によってきびしく統制されていた時代である。民衆を勝手に教化するなど、反逆につながりかねない危険な行為であった。
弾圧にもひるまず、行基は精力的に活動を続けた。河内、和泉、摂津の各地で寺院を建立したのであった。それが「行基四十九院」である。その一つが大野寺であり、その仏塔が「土塔」である。
土塔の完成がいつなのかは、よく分かっていない。僧尼名や氏族名に加えて、姓をもたない人々の名を記した文字瓦が出土していることから、多くの民衆の協力を得て完成したことが分かる。仏教の動員力を目の当たりにした聖武天皇は、行基の力量を認め「大僧正」の位を授けたのであった。
仏塔には様々な種類があり、木造では三重塔、五重塔が多い。かつての国分寺には七重塔が立っていたというし、紅葉に映える談山(たんざん)神社の十三重塔は泣けるくらい美しい。石造の仏塔もまた様々で、五輪塔、宝篋印塔のほか、十三重塔も各地で見ることができる。
それらに対し、この土塔は珍しい型式だ。単なるピラミッドではなく、十三重という仏塔の形式を踏み、瓦で美しく装飾されている。そして何より、一辺が50m以上という迫力である。
巨大建築のあふれる現代の都会に住む私たちは、スタイリッシュな幾何学的建造物を見慣れているので、土塔みたいなのもアリかなと思う。だが奈良時代の人々にはメチャ新鮮に見えたはずだ。仏教パワーを象徴するランドマークとして意識されていたことだろう。
天平十三年(741)、聖武天皇は全国に国分寺を建立すると発表した。国分寺に屹立する七重塔は、まさにランドマークとなる。天皇は仏教の「見える化」を推進していたのだ。もしかすると、その手法は、行基の「土塔」から学んだのかもしれない。
さて、日本三大ピラミッドのシリーズは、その2、その3と続ける予定だが、頭塔には行ったことがないし、熊山遺跡は見たことはあるが写真がないしの状況だ。したがって、いつ記事にできるか未定であるが、何とぞ乞うご期待。