道徳的価値は時代によって移り変わる。戦後70年で変化の大きかったのは「忠孝」であろう。主君への忠義と親への孝行のことだ。
「忠」は封建社会以来、主君、天皇、会社と忠義の対象は推移したが、敗戦を経て高度経済成長期まで生き残っていた。モーレツ社員である。あるいはバブル期、「24時間戦えますか」のリゲインまで命脈を保ったとみることもできよう。バブルはじけて、忠孝滅ぶ。
いや、それでも「孝」だけは生き続けるのではないか。親子は最も基礎的な人間関係であり、断つことのない絆だからだ。真の親子でなくても、養育上、擬制的な親子関係が築かれることがある。親の恩に報いることは、永遠の価値のように思える。
高梁市備中町布賀(ふか)の旧布賀小学校跡地に「孝子碑(こうしひ)」がある。高梁市指定史跡である。
ずいぶんと古い石碑のようだ。孝子とは親孝行な子どものことだから、この地に立派な子がいたのだろう。どのような由来があるのか、説明板を読んでみよう。
与兵衛は孝子の聞こえが高く、天明八年(一七八八)四代領主水谷兵庫勝政が幕府に上申して表彰され、「孝義録」(老中松平定信が芝野栗山に命じて、編述させたもの)に記載された。
文化三年(1808)十月二十日与兵衛没後、後世まで徳を讃えるため、村人が村人が文化四年ごろ建立した。撰書は、代官の熊本氏の一族冬川豊である。碑の大きさは、中央高さ一〇三cm、横四二cm、下底四二cm、上底二八cm、奥行き二十二.五cmで安山岩が用いられている。
今でも、命日にはこの地域の人々が子供達を集めて、与兵衛祭りが行われている。
釈文 ※文中の変体仮名は現行かなにて表記
此与兵衛はよ此里の生れにて其性まめ人(びと)也(なる)もはやくより
父におくれ母につかふまつれる事のいとせつなりとて此わけ
をしるよししのびける殿の登(さだめ)とる所に呼出れ仰ごとを
蒙りかつげ物ありて故よしを鳥が啼吾妻の
大城のもとに聞え上ておゝけなくも孝義録てふ史(ふみ)に記されしと言えり
時に文化三年十月廿日よはひ七十二につて終(つい)にみまかりけるよしなり
まめ心を世にのこさまくおもひ同じ里人熊本冬川平(たいら)の豊が誌(しるす)
与兵衛はこの里に生まれ、その性格は実直で、早くに父に先立たれたため、母にいちずにつくした。事情を知り、これに感服した殿のもとに呼び出され、おほめの言葉とご褒美をいただいた。これをお江戸に申し上げて、おそれおおくも『孝義録』という書物に記録していただいた。与兵衛は文化3年10月20日に72歳で亡くなった。その実直さを後世に伝えようと思い、同じ里の冬川豊が記した。
以上のような意味であろう。お殿様にほめられ、その推薦で幕府の書物に掲載されたのだという。与兵衛の布賀村のお殿様は、旗本の水谷(みずのや)氏だった。
与兵衛がお殿様にほめられたころ、江戸では松平定信が老中となり、寛政の改革を始めた。秩序を正すため、忠孝を重んじる朱子学を奨励した。思想統制である。ただし、寛政異学の禁のように禁止するばかりではなかった。
全国から善行表彰者を報告させ、事例集を発行したのである。8614名が記載されているという。「孝」とは何か、どれほど素晴らしいことかを分かりやすく示し、民衆を教化しようとしたのだ。今でいえば社会教育である。
では、実際に『孝義録』35巻備中編で与兵衛を探してみよう。
孝行者 水谷兵庫知行所 川上郡冨賀村 百姓 与兵衛 四十七歳 天明八年 褒美
与兵衛の具体的な行いは記されていない。故郷にある「孝子碑」が「まめ人」「まめ心」と、彼のひたむきな生き方を伝えるだけである。
現代社会では「公共」が重視され、社会貢献をすることに価値があると考えられている。そのことに異論はないのだが、自分の親につくすのを私的な行為として顧みないことには違和感を覚える。
今後、親の介護は誰もが直面する課題となるだろう。誰もが同じ介護サービスを受けられるわけではない。家族介護というケースも多い。超高齢社会を迎える我が国は、子が親にいかにつくすのかを真剣に考える時期に来ているのではないか。
自分と親との関係を考える際に拠り所となるのは、やはり「孝」という徳目だろう。古くて新しい道徳的価値である。