大河『花燃ゆ』の視聴率云々は言わない。松坂慶子(都美姫)、田中麗奈(銀姫)のおかげで、大名家の女性の暮らしぶりがよく分かった。先日はついに廃藩置県が断行され、長州藩の奥御殿も解散してしまった。銀姫は洋装となってはしゃぎ、華麗に明治を生きていくこととなる。
さて、本日は廃藩など思いもよらぬ天下泰平の頃、紀州徳川家の殿様に嫁いだ三人の女性についてレポートする。
岩出市根来の根来寺に「紀州徳川家ゆかりの女性の墓」がある。並び立つ墓碑三基は、いずれも7代宗将(むねのぶ)に嫁いだ女性のものだ。宗将は「伊予のシンデレラ」永隆院の子である。
まず、真ん中のお墓である。
浄眼院尊儀
浄眼院(じょうげんいん)は徳子といい、今出川公詮(いまでがわきんあきら)の娘である。宗将の正室となるが、宝暦七年(1757)5月24日に若くして亡くなった。享年32。
次に、左側のお墓である。
明脱院尊儀
明脱院(みょうだついん)は高子といい、一条兼香(いちじょうかねか)の娘である。兼香は太政大臣として位人臣を極めた超一流の公卿だ。浄眼院の死後に宗将の継室となったが、明和二年(1765)に宗将に先立たれ、安永八年(1779)7月19日に自身も亡くなった。享年40。子はいなかったようだ。
最後は、右側のお墓である。
清信院慈妙覚大禅尼尊儀
清信院(せいしんいん)は「みを」といい、公儀寄合医師(こうぎよりあいいし)吉田意安(いあん)の娘である。浄眼院に仕えていたが、なぜか(なぜでもないが)宗将の子を何人か産んだ。正室の浄眼院も何人かの子をもうけたが、宗将の跡を継いだのは清信院の子、重倫(しげのり)であった。
清信院は宗将の三回忌を済ませた明和五年(1768)に和歌山にやってきた。信仰心に篤く、子の重倫、孫の治宝(はるとみ)とともに、根来寺の復興に尽力した。亡くなったのは寛政十二年(1800)2月3日であった。享年82。
清信院ら三基の墓が建てられたのは、享和元年(1801)8月のことだ。藩主の9代治宝が、清信院ゆかりの根来寺に、祖父宗将ゆかりの女性の墓をまとめたのであろう。
さて、安倍内閣は「すべての女性が輝く社会づくり」を推進しているという。そして、このたびの内閣改造では「一億総活躍」担当の大臣を置いた。いいことだとは思うが、輝く女性とはどういうものか、活躍するとはどういうことか、吟味する必要はあろう。
今回、紀州徳川家に嫁いだ3人の女性を採り上げたが、彼女たちの人生をどう評価すればよいのだろう。長生きした人もいれば、そうでない人もいる。社会貢献をした人もいれば、そうでない人もいる。世継ぎを産んだ人もいれば、そうでない人もいる。だから、なんなのだ。
「輝く女性」は社会に出てバリバリに活躍をするというイメージがあるが、それだけが望ましい人生ではあるまい。人は与えられた運命の中で精一杯生きている。政府が期待しようとしまいと、自分なりに誰もが頑張っているのだ。
「一億総活躍」を標榜しながら一部の人の活躍しか支援しないのであれば、それはかつて政府自らの責任を「一億総懺悔」と国民全員に責任を押し付けたことの裏返しになる。
KSさま
お目に留めていただき誠にありがとうございます。提供していただいた情報も大変参考になりました。お墓が荒れていることには心が痛みます。不要不急かもしれませんが、やがては整備されることを願っています。
投稿情報: 玉山 | 2021/08/08 20:16
すごく参考になりました。現地に行き、根来寺の方に確認しましたところ、こちらの墓碑は清信院の生前の根来寺再興再建のご恩に報いる?ため根来寺で建立し末永く供養されているものだそうです。そのため命日などの銘文が一切ありませんでした。
浄眼院、明脱院の紀州徳川家としてのお墓は長保寺にありましたが、こちらは近年の風水害、お寺の方の高齢化、新型コロナ流行によるボランティア作業の難航で草木が生い茂り、構内に奉納された灯籠の銘文の上にツタが癒着して銘文は失われつつありますようで。明脱院のお墓は石の外柵が崩れ落ちておりました。管理は和歌山県の教育委員会だそうですが、一刻も早い対応を願っています。そして、清信院の墓所はどこに?古い論文では長保寺にあるとのことでしたが、長保寺の配付資料には記載がなく、ナゾは深まるばかり。
根来寺にお伺いし、根来寺の学術紀要(光安院文書・光安院は清信院の娘、浄眼院に養育されました)を拝見させていただいたことで当時の紀州徳川家の浄眼院を中心とした「家庭」の様子が分かりました。根来寺にお伺いすることになったのはこちらの記述がきっかけです。本当に情報ありがとうございました。
投稿情報: KS | 2021/08/08 19:14