国語の授業で「せきをしてもひとり」(尾崎放哉)を習った時の衝撃は大きかった。こんな短い文学があったのか。その後しばらく、 ナントカしても一人、と言いたい放題のパロディがクラスでブームになった。
堺市堺区櫛屋町西1丁のザビエル公園に「安西冬衛(あんざいふゆえ)詩碑」がある。
まずは全文を紹介しよう。題は「春」である。
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。
おっと、これだけかよ。主語と目的語と述語から成るシンプルな一文である。だが、言葉が多ければ情趣あふれる世界が描けるとは限らない。言葉が厳選されているからこそ、イマジネーションが広がるのである。
この一行詩は、以前に間宮林蔵の記事で以前に紹介したことがある。そこでも書いたように、大小、強弱の見事なアンビバレンスが鑑賞のポイントだろう。また、読み手が自分の人生に重ねて読むことも可能だ。
韃靼海峡とは聞き慣れないが、間宮海峡の中国名である。英語ではTartar Strait、つまりタタール海峡である。タタールの漢字表記は韃靼だが、日本では間宮林蔵の業績を顕彰して、海峡に間宮の名を冠している。
それにしても、〝ちょうちょ〟って海峡を渡るのだろうか。聞くところによれば、アサギマダラは海を渡る蝶として有名だそうだ。ただし、日本本土から南西諸島や台湾に向けて渡るのであり、間宮海峡ではない。
では、安西冬衛は間宮海峡で海を渡る蝶を見たのだろうか。そうではない。この詩は作者が当時住んでいた中国の大連で作られた。大正15年5月に詩誌『亜』第19号で発表された際には、次のような作品だったという。
てふてふが一匹間宮海峡を渡つて行つた。 軍艦北門ノ砲塔ニテ
確かに「間宮」よりも「韃靼」、「マミヤ」よりも「ダッタン」のほうが断然よい。また、「軍艦」という具体物の明示は、イメージの広がりの妨げになるような気がする。それゆえか、昭和4年の詩集『軍艦茉莉』への掲載時には、現在知られている定稿に改変された。
さて、間宮海峡でも大連でもないこの地、堺に、なぜ安西冬衛の詩碑が建てられているのか。碑の裏面に刻まれた説明を読んでみよう。
明治三十一年(一八九八)三月九日奈良市水門町に生る。父は卯三郎、母はセイ、その次男勝後の冬衛。堺市立英彰尋常小学校をへて、大阪府立堺中学校卒業。大正九年父に伴われて大連に赴く。大正十三年北川冬彦と共に短詩型現代詩拡充のため詩誌「亜」を発刊。昭和三年藤井美佐保を娶る。二児あり。昭和九年堺市帰住。以来死に至るまで詩筆を絶やさず。堺市役所に十数年を勤務。昭和現代詩にその特異の詩風を示して光彩があった。昭和四十年八月二十四日死去、六十七歳であった。
昭和四十七年八月安西冬衛を記念する会建碑
安西冬衛は地元、堺の人であった。自身が卒業した英彰(えいしょう)小学校や日置荘(ひきしょう)小学校などでは、冬衛作詞の校歌が、今も子どもたちに歌われている。
冒頭でふれた「せきをしてもひとり」が、漢字を交えた「咳をしても一人」として発表されたのも、冬衛の「春」と同じ大正15年である。この時期は、既成の概念を打ち破るアヴァンギャルド芸術がさかんであった。安西冬衛が主導した短詩運動、尾崎放哉の自由律俳句も、その流れの中にある。
思えば、芸術表現は定型と前衛の間を行きつ戻りつしているようだ。定型には伝統に裏打ちされた洗練美があり、前衛には知覚を刺激する斬新さがある。
安西冬衛の「春」は、言葉が包含するイメージを最大限に発揮させた傑作として、時代を超えて愛されてきた。アヴァンギャルドの真価を味わうことができる作品と言えよう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。