秀吉の朝鮮出兵は、韓国ではしばしばドラマや映画になる。国を守った民族の英雄・李舜臣の活躍を描くためである。いっぽう日本では、秀吉政権の汚点であることからドラマ化されることはほとんどないが、2年前の大河『軍師官兵衛』では比較的詳しく扱っていた。官兵衛が自ら朝鮮に渡って戦ったからだ。
今回の『真田丸』でも同じ時代を扱っており、真田父子は肥前名護屋城まで参陣しているから、少しは紹介されるかもしれない。陣跡には「サナダサエモン様の墓」と呼ばれる信繁の供養墓まである。ちょっとした歴史ミステリーのスポットとして有名だそうだ。
高砂市高砂町横町の十輪寺に「石造高麗仏」がある。「舟子供養塔」ともいう。中心に宝篋印塔、その周りにたくさんの一石五輪塔が置かれている。
「高麗仏」という名称が気になる。朝鮮に関係がありそうだ。舟子とは船乗りのことだから、遭難が考えられる。詳しいことを『兵庫のなかの朝鮮』(明石書店)で調べてみよう。
宝篋印塔は『十輪寺歴代記』によると1730年第27世住職然空上人が建立したものである(当時は御影堂の正面にあった。現在位置に移ったのは1791年)が、石塔婆の方が古い。塔の基礎には「九十六人溺死霊」と刻んであり、豊臣秀吉による朝鮮侵略の際徴発され、朝鮮に渡った高砂近住の百人の水主のうち、帰りに暴風にあって溺死した96人の死を悼んで村人が石塔婆をつくったと考えられる。
朝鮮出兵は秀吉による侵略行為であり、年号をとって「文禄・慶長の役」と呼ぶのが一般的だが、かつては「高麗陣」という呼称もあった。従ってこの「高麗仏」は、高麗王朝ではなく高麗陣に関係する仏塔なのである。
「一将功成りて万骨枯る」といい、戦いでは武将の活躍ばかりが語られるが、その陰には多くの民衆の犠牲がある。高砂浦からも百人の船乗りが徴発されたが、遭難により96人が亡くなったという。
村人は一石五輪塔をつくって帰らぬ者を弔った。その場所が、時を経て荒れてきたのだろう。十輪寺の上人は、一石五輪塔を集めるとともに宝篋印塔を建立し、改めて溺死者を供養した。おそらく、そんな経過で供養塔が建てられたのではなかろうか。
近代の戦争には忠魂碑などの慰霊碑が各地に建てられている。近世以前に対外戦争がほとんどなかった我が国においては、この「高麗仏」は貴重な歴史の証人である。
歴史は、歳月を重ねれば重ねるほど浪漫で語られがちで、戦争も例外でもない。しかし「高麗仏」は、多くの命が一時に奪われるという戦争の現実を如実に物語っている。
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