「正成(まさしげ)は後でわらじにしろと下知(げち)」という江戸川柳がある。楠木正成が「あとで草鞋(わらじ)にしておけ」と命令した、というのだ。いったい何を?
軍(いくさ)はてゝ是(これ)を見れば、哀(あはれ)大剛(たいがう)の者哉(かな)と覚(おぼえ)て、一足も引ざりつる兵(つはもの)、皆人にはあらで、藁(わら)にて作れる人形也。
『太平記』「千剣破城(ちはやのしろ)軍(いくさ)の事」より
たいそう強く一歩も退かない兵がいたが、戦闘が終わって見てみると、みんな人ではなく藁で作った人形だった。「だまされたか」寄せ手の幕府軍が気付いた時には遅かった。上から大石を落とされ、矢で射抜かれたのである。
戦い終わって正成が命令したのは、藁人形をリサイクルして草鞋にしろ、である。混迷する幕府を倒すだけでなく、再生資源を活用する循環型社会を形成する、という高い志を抱いていた楠木正成についてレポートする。
大阪府南河内郡千早赤阪村水分(すいぶん)に「楠公誕生地」の碑がある。
楠木正成は、「悪党」つまり自らの力で経済的な利益を守ろうとする新興武士だと言われるが、その前半生は詳らかではない。したがって、いつどこで生まれたのかを示す確実な証拠はないのだが、この地に「楠公誕生地」の碑があるのには理由がある。説明板を読んでみよう。
楠木正成は永仁2年(1294年)、この地に誕生したと伝えられている。文禄年間に増田長盛が豊臣秀吉の命をうけ、土壇を築き、建武以後、楠木邸にあった百日紅(さるすべり)を移植したという記録が残っている。また、元禄年間には、領主石川総茂が保護を加え、その後、明治8年、大久保利通が楠公遺跡めぐりの際、ここに石碑を建立し顕彰した。
碑文の「楠公誕生地」は、幕末勤王派の三剣豪の一人で、当時誉田八幡宮の祠官であった桃井春蔵直正の揮毫によるものである。
この地は古くから正成の生誕地として認識されていたようだ。また、誕生日は4月25日とされ、千早赤阪村では毎年この日に「楠公祭」が行われている。
石碑の周囲には大きなクスノキが林立している。これは「伏見宮博義王殿下御手植楠樹」で、根元にある標柱の裏面には「大正三年十月六日御台臨」と刻まれている。かつては皇族方がしばしば来訪して植樹をされたようだ。
しかもこの地には、言い伝えだけではなく考古学的な証拠もある。
「楠公誕生地遺跡」
ここは楠木正成が生誕したという伝承の残る地です。くすのきホール建設に伴い発掘調査を行った際には、2重の堀を周囲にめぐらせる建物跡を検出、出土遺物も14世紀のものが認められ、周囲の中世山城群と合わせて考えると楠木氏との関連も推定することが可能です。また、付近には楠公産湯の井戸の伝承地も残ります。
千早赤阪村教育委員会
中世居館跡が見つかったという。これは伝説を補強する有力な状況証拠となる。近くに産湯の井戸もあるらしい。行ってみよう。
偉人の生誕地には「産湯の井戸」があることが多い。秀吉にも家康にも、さかのぼれば頼朝にも産湯の井戸がある。説明板を読んでみよう。
楠公産湯の井戸
楠木正成(1294~1336)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した人物です。ここ水分山の井で生まれたといわれています。正成が生まれた楠公誕生地からは、同時代の中世の館城を確認しています。
地元では、正成は「楠公さん」と呼ばれ親しまれており、この井戸の水を産湯に使ったといわれています。
千早赤阪村
楠公さんの生誕地の候補はもう一つある。「楠公誕生地」の石碑から南へ400m弱あたりの桐山遺跡で、「建武以後楠木邸伝説地」という標柱が立つというが、行ってはいない。
桐山遺跡の西側には、後醍醐天皇の元弘の変に呼応した正成が最初に挙兵した「下赤坂城」がある。城砦と居館がセットになっており、こちらの状況証拠も有利といえる。
千早赤阪村は大阪府では唯一の村である。平成の大合併では富田林市や河内長野市との合併が協議されたが、結果として単独での村政を選択した。
「千早」「赤阪」と、楠公ゆかりの地名を冠する誇り高き村である。「まさしげくん」という若武者のキャラもいる。財政が厳しいようだが、楠公のような知恵と工夫で、末永く栄えてほしいものである。
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