今月7日に放映された『真田丸』で秀吉が死んだ。老いさらばえて「秀頼のことを頼む」とばかり繰り返し、転がった呼び出し用の鈴に手を伸ばしつつ、最期を迎えた。三谷幸喜の脚本と小日向文世の迫真の演技で、実際もそうだったのだろうと思わせるドラマになった。
翌日の天皇陛下のお言葉「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と併せ考えると、日本人が老いをどう迎えるのか、という今日的かつ喫緊の課題が示されたように感じた。
秀吉が亡くなったのは、伏見城でのことある。その城は関ヶ原の戦いで焼亡したのち、家康が慶長七年(1602)に再建したものの、秀忠、家光の代になって不要となり破却された。その後、伏見城の建物は各地へ移築された。今日はその一つをレポートする。
福山市丸之内一丁目の福山城跡に「伏見櫓」がある。城跡は国指定史跡であり、櫓は国指定重要文化財である。
伏見櫓の隣の門を「筋鉄御門(すじがねごもん)」という。こちらも国指定重要文化財である。
元和八年(1622)に福山城は完成するが、この時の城主は水野勝成公である。今秋には公にちなんだ特別展が、福山城博物館で開催されるそうだ。ここを訪ねた昨秋には、ちょうど「福山阿部家展」をやっていた。幕末の名老中、阿部正弘公を輩出した譜代大名である。
展覧会をする博物館は天守閣なのだが、この建物はRC造、つまり鉄筋コンクリート製の再建である。昭和20年8月8日の空襲によって、当時国宝に指定されていた天守閣をはじめ江戸期の建造物の大半は焼け落ちてしまったのだ。
そして、かろうじて残ったのが、今日紹介している二つの重要文化財である。福山駅から天守閣に行く人は、この櫓と門を何気なく通過していくが、往時を偲ぶにふさわしい場所は実にここなのだ。
この二つの建造物は古いがゆえに尊ばれているのではない。説明板を読んでみよう。
伏見槽は、桁行8間、梁間3間、3層入母屋造、本瓦葺の建物で、福山城築城にあたり、伏見城の松の丸東櫓を移築して建てられた。初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を載せ、内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井としている。城郭建築史上、初期の様式を残しており、伏見城の確かな遺構としても貴重である。
筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付櫓門で、伏見櫓と同じく伏見城から移築された。下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど、堅固な造りとなっている。
今は幻となった伏見城が眼前にある。伏見櫓は松の丸東櫓を移築したという。伏見城松の丸は、秀吉の側室となった「松の丸殿」京極龍子が住んだ場所である。しかし、先述したように、移築された櫓は豊臣時代のものではない。
ただ、「伏見櫓」も「筋鉄御門」も伏見城から移築されたと説明するものの、両者に若干のニュアンスの違いがある。伏見櫓は「伏見城の確かな遺構」と力強く謳っているものの、筋鉄御門の説明はややあっさりしている。
そこで調べてみると、村上正名『福山城』(福山市文化財協会、昭和41)に次のような記述があった。
伏見城から移建されたことは諸書に拝領の建物の目録のなかに大手門、鉄御門とあって、そのひとつがこの門をさしているとするが元和創建の説もある。
「鉄御門」が「筋鉄御門」のこととされているが、決定的な証拠はない。今のところ伏見城に由来すると信じられているようだ。仮に元和の福山城築城時に建てられた門だとしても、その力強い意匠と数少ない創建時の建物という希少さで、文化財としての価値は十分ある。
伏見…。今は酒どころのイメージだ。だが、秀吉の時代、我が国の首都機能を有していた街であった。その面影を福山城の伏見櫓に見ることができる。桃山文化を今に伝えているのである。
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