内野聖陽の演じる家康も秀逸だ。おっちょこちょいでありしたたかであり、人間的な魅力がある。家康の実像、さもありなんと思わせる好演である。その家康の母方の祖母は『真田丸』に登場しないが、このブログでは紹介したことがある。
今日は暴れん坊将軍吉宗公の母方の祖母の話である。徳川将軍家といえば華麗なる血脈に彩られていると思われがちだが、吉宗の場合はそうでもないようだ。
和歌山市橋向丁(はしむかいちょう)の大立寺(だいりゅうじ)に「徳川吉宗公御祖母御墓所」がある。
墓石の状態は良く、今も丁寧に供養が続けられている。墓石には「冷香院浄誉清寿貞量大姉」と戒名が刻まれている。命日は背面に刻まれており、「宝永」の年号は確認できたが、あとはよく見えない。ネット情報によると、「宝永五年三月十二日」らしい。宝永五年は1708年である。当時、吉宗は紀州徳川家の藩主であった。
冷香院の娘が吉宗の母となった浄円院(じょうえんいん)である。彼女が紀州徳川家二代目光貞の四男として吉宗を産んだのは、貞享元年(1684)10月21日のことであった。その場所がここだ。
和歌山市吹上二丁目に「徳川吉宗公誕生地」の石碑がある。「城下吹上邸で生まれたとされている」と少々心許ない説明だ。それは母の出自が関係している。
さらに歴史をさかのぼろう。冷香院と浄円院の母子はどのような家の出身なのか。血脈が重視された江戸時代、自らのアイデンティティを確認するために作成されたのが、『寛政重脩諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』という家系図集である。
その第8輯に収められた巨勢(こせ)氏の家譜によれば、浄円院は八左衛門利清の娘であり、「母は大覚寺宮の家司(けいし)壺井源兵衛義高が女」だとされている。吉宗は将軍に就任すると、浄円院の弟や甥を召し出し、旗本としている。
古代豪族の流れを汲む、というのが公式な見解なのだろうが、これに異説のあるところが面白い。徳永真一郎『徳川吉宗』(PHP文庫)で、浄円院(お由利の方)は次のように紹介されている。
生母は藩士巨勢六左衛門の娘でお由利の方ということになっているが、六左衛門は養父で、本当は江州彦根、外船町に住んでいた医者の娘だという。彼女が十七歳のとき、藩で禁止していた絹布の着物をきたというので追放になり、母親とともに西国巡礼姿で和歌山まで流れてきて、母親が病気になり、橋向町の大立寺前で行き倒れになっていたのを住職が救けた。娘のお由利はまもなく紀州家の奥御殿に仕えて藩主光貞の湯殿掛りとなった。あるとき光貞が、たわむれに湯をかけたところ、お由利も負けずに光貞に湯をかけた。おもしろい女だというので、寝所に召して吉宗が生まれた、というわけである。
要するに、大した生まれじゃないよ、と伝説は主張しているのである。そして、吉宗公が誕生したのは、大立寺の住職が救ってくれたからこそである。すべては運命のなせる業なのだ。そんなシンデレラストーリーのほうが庶民ウケがよい。
そういえば、『真田丸』で高畑淳子の薫(昌幸の正室)は、菊亭晴季(きくていはるすえ)の娘と称していた。しかし、これは詐称で、実のところは侍女であった。
報道ステーションの名コメンテーターとして知られたショーン某氏も経歴詐称でダメージを受けた。誰もが華々しい経歴、高貴な血筋を望む。というもの、初めて出会う人を評価する手掛かりとして、経歴、そして血筋が有効だからだ。目の前にいる私自身ではなく、私の背後が見られているのである。
吉宗公の御生母、浄円院が巨勢氏の流れであろうと巡礼の娘であろうと、それは単なるゴシップ程度の情報価値に過ぎない。浄円院は、吉宗公が将軍となったことに伴い江戸城に入ったが、決して権勢を誇ることがなく控えめであった、と伝えられている。これこそ記憶すべきことだろう。
とすれば、よくできた娘(浄円院)を育てた母、冷香院もまた立派なお人柄だったのだろう、と合掌しながら墓前で想像するのである。
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