かえすがえすも残念に思うのは、天守閣が空襲で焼け落ちたことである。戦争前には往時のままの天守閣が20あった。そのうち空襲で7つを失い、戦後に失火で1つをなくし、今は12城に残る。
和歌山城が落城したのは、昭和20年7月9日深夜から翌日未明にかけてのこと。天守閣は、美しいまでに赤く激しい炎に包まれて、闇に浮かびあがったという。
和歌山市一番丁に「和歌山城」があり、国指定の史跡となっている。姫路城、松山城とともに、日本三大連立式平山城の一つとされる。お堀も立派で、さすがは御三家の居城だ。
天守閣は昭和33年にRC造で再建された。耐用年数が限界に近付きつつあり、今後のことが検討されているようだ。似たような状況の名古屋城については、木造再建を目指す河村たかし市長と市議会が財源や工期をめぐってもめている。市長によれば、往時の木造天守は2年で完成しているので、今の技術をもってすれば2020年にじゅうぶん間に合う、ということだ。はたして、どうなるのか。
上の写真で、斜めに架かっている屋根付きの橋が「御橋廊下(おはしろうか)」である。こちらは平成18年に木造で復元されたものだ。空襲で焼失したのではなく、明治時代に失われたらしい。当時は荒廃していく城に、誰も関心を持たなかった。
中を渡ると、木の優しさが肌を通して伝わってくる。木造にこだわる河村市長の気持ちが分からないでもない。空襲さえなければ世界遺産になっていただろうに、と市長も戦争を憎んでいるだろう。
和歌山城には、焼失を免れた貴重な建造物が二つある。
上が「岡口門」、国の重要文化財に指定されており、城の搦め手に位置する。元和年間の建立と考えられている。下は「追廻(おいまわし)門」、こちらは無指定である。寛永六年(1629)の建造という。
「南海之鎮(しずめ)」と呼ばれた和歌山城。その威容は再現であっても、じゅうぶん伝わってくる。明治33年に発表された「鉄道唱歌」第5集〈関西・参宮・南海篇〉に、往時の和歌山城が次のように歌われている。
みかへる跡に立ちのこる 城の天守の白壁は 茂れる松の木の間(このま)より いつまで吾を送るらん
列車が和歌山市街を離れる。だが、和歌山城の白い天守はいつまでも私を見送っているように見える。和歌山城がこの街の象徴であることは、今も昔も変わらない。和歌山城も御三家として名古屋城と連帯し、木造復元を目指してはどうだろうか。
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