『真田丸』が好調なので、和歌山県では真田父子隠棲の地、九度山町が観光ブームに沸いている。しかし忘れてはならないのは、今年が徳川吉宗将軍就任から300年になるということだ。和歌山市では記念イベントやオリジナル切手の作成、さらにはLINEスタンプまで販売してお祝いしている。
今日は真田父子より吉宗公にお味方つかまつり、紀州徳川家の正室の墓をレポートする。
和歌山市吹上一丁目の報恩寺に「徳川家御廟」があり、紀州徳川家正室の墓三基がある。
3名の正室のお名前(院号)を墓碑から読み取った。墓碑は左から「瑤林院」、「天真院」、「寛徳院」のものである。このうち「瑤林院の墓」は市指定文化財となっている。
左の「瑤林院」は、紀州徳川家初代の頼宣公の正室である。加藤清正の娘として生まれ、元和三年(1617)に頼宣と結婚した。この年にはすでに、二人の父、家康と清正は亡くなっていたが、婚姻の約束は早くからできていたらしい。
真ん中の「天真院」は、二代光貞公の正室である。伏見宮貞清親王の娘として生まれ、明暦三年(1657)に光貞と結婚した。貞清親王は伏見宮家10代目である。
右の「寛徳院」は、五代藩主、いや八代将軍吉宗公の正室である。伏見宮貞致(さだゆき)親王の娘として生まれ、宝永三年(1706)に吉宗と結婚した。貞致親王は伏見宮家13代目である。
瑤林院は66歳、天真院は83歳と長命であったが、寛徳院は20歳で流産の後に亡くなった。吉宗公は寛徳院が亡くなった後、正室を持つことはなかった。
伏見宮家との婚姻は、紀州徳川家が華麗なる一族であることを雄弁に物語っている。しかし、ここでは瑤林院がつないだ加藤清正との関係に注目したい。
『肥後文献叢書』第二巻に、「清正記(きよまさき)」という加藤清正の伝記が収録されている。三巻で構成され、清正研究の基本文献として知られる。その巻末には、次のような文が記されている。
此清正記三巻将軍吉宗公可有 御覧之旨肥後本妙寺本寺本國寺へ以浅草幸龍寺本妙寺へ可申遣之由享保十六年六月十三日申来る因茲従本國寺本妙寺へ申遣し同年七月従肥後細川越中守殿江戸へ被差上 将軍家御覧の後明年享保十七年春本妙寺へ御返辨也
肥後本妙寺宿坊本國寺塔頭 勧持院日遙 在判
この「清正記」三巻を将軍吉宗公がご覧になりたいとの旨が、肥後の本妙寺の本山である本圀寺に対し、享保16年(1731)6月13日浅草の幸龍寺を通して申し伝えられた。本圀寺はこのことを本妙寺に伝え、同年7月、熊本藩主細川宣紀さまが幕府に「清正記」を差し出した。吉宗公がご覧になってから、翌17年春に本妙寺に返却された。
吉宗は加藤清正に強い関心を抱いていたようだ。吉宗と清正に血のつながりはないが、吉宗にとっては系譜上、瑤林院が祖母、清正は曾祖父となる。吉宗が「清正記」を求めた際にも、当然、そのことを意識していただろう。
吉宗が「清正記」を読んだことは、清正の死後に改易された加藤家の名誉回復となり、その後の清正を顕彰する動きへとつながっていく。人々は強かった清正公にあやかり、厄除けや商売繁盛など様々な願いを祈りに込めた。これを「清正公(せいしょうこう)信仰」という。
熊本で今も親しまれている「せいしょこさん」加藤清正公と、和歌山が誇りとする八代将軍徳川吉宗公。ビッグネームの両者をつないでいるのは、瑤林院その人であった。瑤林院は熊本生まれで、八十姫(やそひめ)といった。熊本城おもてなし武将隊の一員として出演していたが、すでに引退したようだ。
和歌山の話から始めて、話が熊本へと飛躍してしまった。清正公といえば熊本城。今年四月の地震で甚大な被害を受けた熊本城の復興を祈りつつ、擱筆することとしたい。
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