ブログ『紀行歴史遊学』が、1000エントリーを達成しました。ご覧くださいましたこと、心より感謝申し上げます。節目となる今回は、伊賀と鳥取を結んで「伊賀越え仇討」をお送りします。
戦国の世など、とうに終わっているのかと思えば、中高生の受験戦士が今も戦っている。本日は、合格祈願なら学問の神様、菅原道真公だと思っている諸子に、剣豪の荒木又右衛門(あらきまたえもん)を紹介したい。
荒木又右衛門は勝負の神様である。君が手にしているシャーペンは、言うなれば又右衛門の刀だ。そのシャープな切れ味は、目の前の問題を次から次へと片付けていくだろう。
荒木神社の絵馬を見よ。又右衛門の凛々しい表情からは、勝負に向かう気構えがうかがえる。受験諸子も同じ気持ちでペンを動かしているに違いない。では、荒木又右衛門は何をした人なのか。
伊賀市小田町と上野西大手町の境に「鍵屋の辻」がある。ここが「伊賀越え仇討」の現場である。
正面、松の樹の間に石碑が見える。「伊賀越復讐記念碑」と刻まれており、揮毫は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵奥保鞏(おくやすかた)、日露戦争で活躍した軍人である。
ここで仇討が行われたのは、寛永十一年(1634)11月7日のこと。写真は西から東に向けて写しているが、当時はまっすぐに進む道はなかった。旅人が往来する大和街道は右のカーブである。右手には萬屋、左手には鍵屋という茶屋があった。今、萬屋は数馬茶屋として再現されている。
仇討の標的にされたのは河合又五郎。彼の一行11人は、手前から進んで右へ曲がろうとしていた。これを待ち伏せしていたのは荒木又右衛門と渡辺数馬、岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人である。萬屋で又右衛門は酒を呑み、数馬は緊張で体を震わせていた。
事の発端は、寛永七年(1630)7月11日、岡山城下で藩士・河合又五郎が、藩主の小姓・渡辺源太夫を殺害したことである。又五郎は江戸へ逃走し、旗本・安藤家にかくまわれた。
岡山藩主・池田忠雄は又五郎の引渡しを幕府に求めたが、旗本仲間が結託してこれを拒否。険悪な雰囲気が高まってきた寛永九年(1632)に、忠雄が疱瘡により急死する。長男の光仲は幼少のため、鳥取へ国替えとなった。
忠雄は死に臨んで、又五郎を討つよう言い残していた。被害者・源太夫の兄・数馬は仇討せざるを得ない状況となったが、剣術は得意なほうではない。そこで姉婿の剣豪・荒木又右衛門を頼ったのである。
奈良に潜伏していた又五郎が江戸へ向かうのを知った又右衛門、数馬ら4人は、ここ鍵屋の辻で一行を待ち伏せし、見事に本懐を遂げるのである。死闘は午前8時から午後2時までの6時間に及んだと言われるが、決闘の詳細は、先日の『真田丸』の「超高速!関ケ原」(?)のように省略する。
伊賀市上野寺町の萬福寺に「河合又五郎の墓」がある。
立札には「寛永十一年十一月七日寂 俗名川合又五郎 享年二十四歳」とある。川合は河合に同じである。若くして命を散らすことになったのは誠に気の毒だが、復讐が公的に認められていたこの時代、やってやり返されたのもやむをえまい。
この決闘で又五郎側は、河合又五郎、叔父の甚左衛門、妹婿の桜井半兵衛、従者の三助の4名が死亡した。いっぽう数馬側は川合武右衛門1名であった。
数馬、又右衛門、孫右衛門の3名は地元藤堂藩に預けられたが、数馬が仕えていた池田家、又右衛門が仕えていた松平(忠明)家、それぞれが身柄の引渡しを要求した。又五郎に味方していた旗本たちは、3名の処罰を求めた。
数馬らの処置は、なかなか決まらなかった。おそらく、ほとぼりが冷めるのを待っていたのだろう。寛永十五年(1638)になって、3名の身柄は鳥取藩池田家に引き渡された。
鳥取市栗谷町の興禅寺に「渡辺数馬の墓」がある。歳月を経て変色した墓碑をよく見ると「備前州岡山産」とある。右側の小さな墓は、又右衛門の息子三十郎と娘まんの墓である。
心身ともに疲弊していたのか、数馬は寛永十九年(1643)12月2日に35年の短い生涯を終えた。殺人事件さえ起こらなければ、平穏な暮らしができたことだろう。
鳥取市寺町の光明寺に「岩本孫右衛門の墓」がある。
孫右衛門は川合武右衛門とともに、荒木又右衛門の門弟として仇討に参加した。鳥取に来てからも長命を保ち、寛文八年(1668)6月24日に72歳で亡くなった。法名の「一光浄心信士」を墓碑に見ることができる。
冒頭の絵馬があるのは鳥取市元町の荒木神社で、社殿の脇には「又右衛門が使用した手水鉢」がある。ここには荒木又右衛門の屋敷があった。手水鉢が割れているのは、昭和27年の鳥取大火の猛火に包まれたからだ。
ここは「荒木又右衛門終焉の地」でもある。寛永十五年(1638)8月13日、丁重な護衛で鳥取入りしたものの、二週間ほどした28日に、妻子の到着を待つことなく急逝する。不惑の40歳であった。
鳥取市新品治町の玄忠寺に「荒木又右衛門の墓」がある。
保護のため被せられた金網が、又右衛門が仇討で着ていた鎖帷子(くさりかたびら)に見える。法名の「秀誉行念禅定門」も読み取れる。
再び興禅寺に戻ろう。渡辺数馬の墓の手前に「剣聖荒木先生記念碑」がある。昭和7年の建立で、揮毫は海軍大将斎藤実、五・一五事件後に首相となり二・二六事件で暗殺された人物である。碑を建てたのは鳥取の武芸家、松田秀彦である。松田はその昔、大久保利通暗殺計画に関与したことがある。たった一つの石碑に、日本史が凝縮している。
松田は槍術範士、剣道教士、薙刀教士の称号を持つ。つまり何でもできる人なのだ。そんな彼がリスペクトしていたのが、荒木又右衛門であった。
仇討当日の朝、又右衛門は、萬屋で勘定を済まして外へ出たが、「んっ」と言って店の中に戻った。再び出てきた又右衛門は「一文多く払っておってな」と言う。数馬が「このような時に一文など、どうでもよろしいではありませんか」と言うと、「このような時だからこそだ。ずいぶん慌てたものよ、と笑われては恥だからな」と答えたという。
萬屋の亭主の証言に基づくのか、講談師のつくり話かは知らないが、胆の据わった大人物だったことを伝えているのだろう。勝負の神様は単に強いだけではない。剣の道はやはり、人間形成の道である。
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