「大きいことはいいことだ」と、山本直純がオーバーアクションで楽しませてくれる、チョコレートのテレビCMがあった。折しも重厚長大産業を基盤とした高度経済成長期であり、当時の人々の感性に実に合っていた。
今はコンパクトでスマートなものが好まれるのかもしれないが、桁外れの大きさには、見る人を圧倒する迫力がある。最近は各地で巨大アートが制作されている。今月12日に披露されたのは、京都市役所前で自動車をバックドロップしている全長7mのジャイアント馬場だ。大きいことは、昭和の昔も平成の今も、いいことなのである。
伊勢市楠部町に「大五輪(おおごり)の五輪塔」がある。「大五輪」というのは字名である。もちろん、この五輪塔があるがゆえに、この地名になったのだろう。
高さは340センチ。花崗岩製だが風化にも耐え、美しさが保たれているため、県の有形文化財(建造物)に指定されている。様式から南北朝から室町時代の作と推定されている。
不思議なことに、これだけ大きいのに、まったく何も刻まれていない。だから、何の目的で建てられたのか判然としない。昭和58年に発行された中川竫梵『増補伊勢の文学と歴史の散歩』(古川書店)には、次のように記されている。
この大五輪の造立の由来については、和泉式部の石塔とか、光明皇后のために建てたとか、その他いろいろあるが、延徳元年(一四八九)ごろにおきた宇治と山田の合戦の際、戦死した兵士をここに葬り、その供養のために建てたとする説が、最も妥当なようである。
ところが、伊勢市教育委員会が平成25年に設置した説明板には、次のように記されている。
本塔については、宇治山田合戦の供養碑など伝説は数多いですが、近年の研究ではこの場所が鎌倉時代後期に叡尊(興正菩薩)によって中興された旧弘正寺(楠部町)の所有地であるため、塔の規模や形状からも、奈良西大寺の律宗石工集団による叡尊五輪塔との関連性が提起されています。
宇治山田合戦というのは、内宮の門前町・宇治と外宮の門前町・山田が室町時代に何度も争ったことをいう。特に、延徳元年には国司・北畠氏と結んだ宇治方を、山田方が猛攻撃して大きな被害が出たようだ。従来はこの合戦の死者の供養塔だと考えられていた。
だが近年は研究が進み、新説が提唱されている。奈良西大寺の高僧、叡尊と強い関連があるというのだ。そこで思い出したのが、以前にレポートした宇治市の浮島十三重石塔である。こちらは高さ約15m、大五輪とは形状が異なるが、同種の塔と比較して巨大なことは共通している。
鎌倉新仏教というと、法然、親鸞…と、有名な宗祖を6人くらい挙げることが多いが、その中に叡尊はいない。しかし、叡尊の思想「興法利生」、つまり、仏教を盛んにして民衆を救済することは、先の6人の宗祖と共通の理念と言えよう。
その理念を形にしたものが「大五輪」なのだ。五輪塔の大きさは、そのまま仏教の偉大さであり、あまねく衆生を済度する仏の御心を表現しているのである。やはり、大きことはいいことだ。
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