戦争は、生々しい記憶が薄れるにつれ、美化され歴史ロマンとして語られるようになる。しかし、その実態は人が人に殺されることに他ならず、美しい死などなかったはずだ。
それでは、殺人事件はどうだろう。殺人は卑劣でむごたらしく、ロマンで語るにはふさわしくない、と思える。しかし、そうでもなかったという話をしよう。
伊勢市古市町の大林寺に「油屋騒動比翼塚」がある。
比翼塚とは、愛し合った二人の墓である。これまで「お夏清十郎」と「権八小紫」の比翼塚を紹介した。今回の二人とは、「お紺」と「斎(いつき)」である。どのような関係なのだろうか。まず二人の墓碑銘の詳細を見よう。
左はお紺の墓である。
文政十二年己丑二月九日
増屋妙縁信女
俗名おこん年四十九
右が斎の墓である。
寛政八丙辰五月十四日
光屋貞陰居士
俗名斎行年廿七歳
文政十二年は1829年、寛政八年は1796年である。二人の亡くなった年は、ずいぶん隔たっている。愛し合う二人の心中事件なら、同じ日付のはずだ。お寺の説明板には、次のように記されている。
境内にある遊女お紺と孫福斉の比翼塚は、寛政八(一七九六)年、当寺の左隣にあった古市三大妓楼の一つ油屋におこった刃傷沙汰「油屋騒動」(「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」という歌舞伎狂言)の主人公を悼んで建立寄進されたものです。
お紺の墓は、文政十二(一八二九)年、坂東彦三郎によって建てられ、さらに昭和四(一九二九)年、実川延若によって孫福斉の墓も建てられました。
詳細はこうだ。時は寛政八年(1796)5月4日夜、このあたりの遊郭の代表的妓楼である油屋で、孫福斎(まごふくいつき、27歳)は、馴染みのお紺(16歳)を相手に呑んでいた。ところが、お紺は阿波から来た商人に呼ばれて中座してしまう。しばらく待っていた斎は、なかなか戻ってこないことに業を煮やし、ついに刃傷に及ぶ。9人を斬り、うち3人が死亡したという。お紺はなんとか無事だった。斎はその場から逃走したが、後に自害しているのが見つかった。凄惨な殺傷事件である。
しかし、これで事件は終わらなかった。ここから芸術へと昇華していくのである。事件からすぐに歌舞伎に脚色され、同じ年の7月には『伊勢音頭恋寝刃』として上演された。歌舞伎では、孫福斎は福岡貢という人物に置き換えられたが、お紺はそのままの名前で登場する。妖刀「青江下坂」を巡って物語が展開し、良かれと思ってお紺のしたことが、かえって惨劇を招く結果になる。凄惨な殺し場は美しく描かれている。
物語の舞台となった「油屋跡」が同じ古市町にある。近鉄鳥羽線が通っていて、昔の面影は想像もつかない。
難を逃れることのできたお紺は、どのような思いだったか。心的外傷後ストレス障害を発症することはなかったのだろうか。事件後の人生はよく分からないが、49年の人生だったことが墓碑銘から分かる。墓を建てたのは福岡貢を演じた四代目坂東彦三郎であった。
お紺が亡くなって百年後に、孫福斎の墓を、戦前の名優二代目實川延若が建てた。ちなみに延若は、歌舞伎を始めた「出雲阿国」の顕彰にも協力している。歌舞伎役者の社会貢献活動である。
こうして油屋お紺と福岡貢ならぬ孫福斎は並んで供養されているわけだが、泉下の二人は正直どう思っているのだろうか。歌舞伎ではお紺と貢は恋仲だが、実在のお紺と斎がそうとは限らない。初めは居心地が悪かったであろうが、これまでの長い歳月が、恩讐を彼方へと押しやったに違いない。
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