織田信長は「中国征伐」の真っ最中に、本能寺の変に倒れた。毛利攻め最前線の秀吉からの要請に応えようと準備しているところだった。もし何事もなかったら、信長自身の中国入りがあったかもしれない。
信長の死によって未完に終わった中国征伐は、天正五年(1577)に始まった。上月合戦、三木の干殺し、鳥取の渇え殺しを経て、天正十年(1582)の高松城水攻めに至るまでをいう。前回は鳥取の渇え殺しについて、毛利勢の史跡や史料を紹介した。今回は寄せ手の秀吉勢の史跡を紹介しよう。
鳥取市百谷(ももだに)に「太閤ヶ平(たいこうがなる)」がある。国指定史跡としては「鳥取城跡附(つけたり)太閤ヶ平」という。石柱上部には「天正九年秀吉鳥取城攻畧ノ址」と刻まれている。
天正九年(1581)の鳥取城攻めの際、秀吉の本陣となった場所である。土塁に囲まれた広い空間に立つと、さすがは太閤殿下と思わせるが、当時は筑前守と名乗るばかりで、将来関白になるなど想定外の頃であった。
鳥取市教育委員会が作成した説明板を読んでみよう。
この地に築かれた秀吉本陣は、高低差4m以上の土塁(土の堤防)と空堀に囲まれ、内寸58m、櫓台も設置した、大型かつ強固な防御性を備えた構造をしています。また、周囲のあらゆる尾根に陣城を配置し、鳥取城に対する強大な包囲網を敷いています。本陣および陣城群は、一城を攻めるにはあまりに大規模であることから、毛利氏との本格的な戦闘に備えた陣城であるとともに、信長を迎え入れるための本陣でもあった可能性が指摘されています。
秀吉は、「重厚長大」なるもので敵を圧倒し、戦意を喪失させるのを得意とした。圧倒的な兵力によって包囲し、そして長期間の滞在に耐えうる本陣を築いた。敵将・吉川経家の攻撃に備えるというよりも、その背後で去就に迷っている武将に見せつけるためだったろう。
あるいは説明板の言うように、信長をお迎えする大本営のつもりで築いたのかもしれない。頑強に籠城する敵勢であったが、信長さまのお出ましにより遂に降伏…。そんなシナリオを描いていたが、意外に早く敵の兵糧が尽きて、終戦となったということか。
この鳥取攻めでは、織田勢が強すぎて信長の出番がなく、翌年の高松城水攻めでは、その最中に信長自身が斃れてしまう。稀代の英雄、信長の中国入りは、ついになかった。
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