失われた城を求めて、いろんな人が頑張っている。代表格は名古屋市の河村たかし市長。2020年までに木造で天守閣を復元するとして、議会と激しく駆け引きしているようだ。東京では「江戸城天守を再建する会」が太田道灌の御子孫を会長として活動している。
そして、今日は鳥取城。天守閣復元のような派手な話はないが、幕末期の姿をよみがえらせようと整備が進められている。
鳥取市円護寺と東町二丁目の境に、鳥取城の山上ノ丸に「天守櫓跡」がある。
天正九年(1581)、織田勢との決戦に石見から派遣された吉川経家は、この城に籠城して戦うことを次のように述べている。『大日本古文書』家わけ九別集「石見吉川家文書」のうち145「吉川経家自筆書状」より
京家御弓矢之堺と申、日本ニかくれなき、名山鳥取ニ罷籠、当家之御用に罷立、名誉を留後代候はん事、古今未来之大望不可過之候
織田勢と毛利勢との決戦の場、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」鳥取城に籠城し、毛利家のお役に立てる名誉を後世に伝えることができるのは、これまで、いやこれからも、これに過ぎる望みはありますまい。
そう言わせるだけあって、とにかく眺めが優れている。日本海側に目を向けると、鳥取砂丘の一部が見える。
かつて、ここに二層の天守があった。明治になって取り壊されたのでも、空襲によって焼け落ちたのでもない。元禄五年(1692)に落雷によって焼失したのである。そういえば、江戸城は明暦三年(1657)、大坂城は寛文五年(1665)に天守を焼失している。
同じく山上ノ丸に「車井戸」がある。
ここ久松山(きゅうしょうざん)は263m。こんな山頂部に井戸があるとは。平成15年に文化庁と鳥取市教育委員会が設置した説明板を読んでみよう。
池田長吉(いけだながよし)が慶長七年(1602)から行った城内大改築の時に掘った井戸と伝えられています。
鳥取市教育委員会が平成27年に作成したパンフレットには、「3年の歳月をかけて掘られた」と記述されている。おそらく、ずいぶん深くまで掘られているのだろう。
東町二丁目の山下ノ丸に「天球丸巻石垣」がある。平成24年に復元された。球面の石垣は、全国唯一で大変珍しいそうだ。江戸時代の終わりごろに、石垣の補強を目的として築かれたものである。
「天球丸」という名称は巻石垣の形状にピッタリなのだが、実はまったく関係がない。「車井戸」で登場した池田長吉の姉・天球院の居所があったことによる名称なのである。
鳥取城では現在、大手登城路の復元整備が進められている。さすがは「日本100名城」という、時間空間ともにスケール感のある城を、近い将来、目にすることになるだろう。
この城の麓で日々学業に励んでいるのが、鳥取西高校の生徒である。藩校の伝統を継承する名門校で、野球部は甲子園でもおなじみだ。もちろん校歌では、鳥取城が歌われている。
歴史は長き 鳥城(ちょうじょう)の 松風高き 学舎(まなびや)に
この場所で学ぶことができることを誇りとするがよい。歴史の息吹が感じられる学び舎には、未来を形成する人材が育つ。鳥取城の復元は、鳥取の人材育成にも貢献しているのである。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。