かつて「かつ江さん」というマスコットキャラクターがいた。公式に存在したのは平成26年7月7日から9日までの3日間。鳥取城をPRするために活躍するはずだった。キャラクターは「かわいい」のが定番だが、「かつ江さん」はやせこけて血色が悪く、見るからに悲惨である。
時は天正九年(1581)、毛利と織田の頂上決戦が、鳥取城を舞台に行われた。この時、織田方の羽柴秀吉が行った兵糧攻めは、「鳥取の渇(かつ)え殺し」と呼ばれ、多くの民衆が飢えに苦しんだ。「かつ江さん」はその一人である。
鳥取市円護寺に「吉川経家公墓所」がある。近付くと2基の五輪塔があり、これは経家公主従の墓と伝えられている。
私はこの日、鳥取駅からバスで墓所に来て、経家公が籠城した鳥取城へと登り、市街地側の急斜面を下って鳥取西高校の前に出た。その頃には雲が去り、経家公の勇姿が久松山の緑に映えていた。
鳥取市東町2丁目に「吉川経家公像」がある。迫力のある武将像が得意な毛利彰の原画によって、郷土の彫刻家、奥谷俊治が制作した。
吉川経家は毛利方の武将として、当時鳥取城の守備を任されていた。そして、飢餓に苦しむ人々の命を救うため、切腹して開城するのである。その詳細な話は、岩国市にある「吉川経家弔魂碑」の記事を読んでいただきたい。
経家が書き残した感動的な書状の内容は、その記事に掲載しているので、本日は城中の飢餓状態について、当時の史料を紹介しよう。『大日本古文書』家わけ九別集「石見吉川家文書」のうち103「吉川経安置文写」の一部である。
誠光陰の過る事時人をまたさる世中なれは、月日の立に付ても、弥(いや)城中せんかたなく、次第ニ兵粮つきぬれハ、或牛馬を食とし、或人を服す。獄卒・あしら・らせつの呵嘖もかくこそと、目もあてられぬ分野、前代未聞とも、中々いふもおろかなり。
これは、経家の父である経安が、息子の軍功を孫たちに伝えるために書き記したもので、天正十年(1582)二月十三日の日付がある。抜粋部分を意訳してみよう。
光陰矢のごとし、歳月人を待たずと言われるように、月日が流れるにつれ、ますます城中はなすべき手段を失った。次第に食糧が尽きはて、大切にしている牛馬を食べたり、人を食べたりした。獄卒(ごくそつ)・阿修羅(あしゅら)・羅刹(らせつ)など、鬼がいる地獄の責めは、このような有様だろうか。とても正視できず、前代未聞である。このことは、いくら言葉を尽くしても分かってもらえないだろう。
まさに現実の地獄がここにあったわけだ。そもそも、人の命を奪う戦争そのものが、地獄に他ならない。それを対岸の火事のように、ゲームのように、大河ドラマのように、しょせん他人事だと距離を置いたり、ロマンに浸って鑑賞したりするから、戦争の本質を見失うのである。
「かつ江さん」はなぜ生まれたのか。それは戦争の真実を伝えるためである。カエルを逆さに持っているのは、「かえらない」つまり「悲惨な歴史を繰り返さない」という意味があるそうだ。なんと素晴らしい寓意ではないか。
たった3日間の公開だったが、「かつ江さん」の登場は大きな意味があった。責任を一身に背負って自決した武将を賛美するのもよかろう。しかし、死は決して美しいものではない。そのことを、「かつ江さん」が教えてくれた。