海賊のうち、日本の子どもに最も有名なのは、モンキー・D・ルフィだろう。「海賊王におれはなる」と叫ぶ『ONE PIECE』の主人公である。映画ならジョニー・デップのジャック・スパロウ、ディズニーならフック船長だ。
実在の海賊では、17世紀後半のキャプテン・キッドことウィリアム・キッドの人気が高い。中学生の合唱曲『カリブ夢の歌』にも登場する。「夢の海へ」と美しく歌われるが、現実の海は死ぬか生きるかの世界だったろう。
キャプテン・キッドには、財宝を隠したという伝説があり、トレジャーハンターの夢をかきたてている。面白いことに、鹿児島県鹿児島郡十島村(としまむら)の宝島にも、遥々とやって来たという。十島村のホームページでは、「宝島」が次のように紹介されている。
その名のとおり、昔イギリスの海賊、キャプテンキッドが財宝を隠したという言い伝えがあり、財宝を隠したという鍾乳洞もあります。
ほんまかいな。俄かには信じられないが、ロマンがある。海賊行為は犯罪であり、実際にキッドも処刑されている。しかし「海賊」という人たちは、夢やロマンを運び、人の心を奪ってゆくらしい。
我が国の実在の海賊はどうだろうか。本日は、瀬戸内海で活動し、外国人宣教師に「海賊」と呼ばれた男の話である。
呉市川尻町森4丁目に「大須和(おおすわ)城」がある。堀や郭の跡が良好に残っており、市の史跡に指定されている。本丸跡に諏訪神社(須和社)が鎮座し、かつての川尻町教育委員会が制作した説明板がある。
この城については、城主を含め分からないことが多いが、このあたりに勢力を有した水軍の見張り城だったと考えられている。16世紀後半に川尻を知行していたのは、乃美氏と白井氏だった。どちらも毛利氏配下の小早川水軍の有力部将である。
説明板の文中に、興味深いことが記されている。
十六世紀半ばのころ、カラブル神父が本国のポルトガルへ出した手紙によれば、川尻は「船長の九郎右衛門を初め多くの者が船に乗り込んでいた」とある。
カブラル神父といえば、ザビエル、トーレスに続く日本における布教責任者である。永禄十三年(1570)に来日し、足利義昭、織田信長に謁見するなど、精力的に活動した。天正二年(1574)、カブラルは山口での布教を終え、海路で堺へ向かおうと、岩国から「九郎右衛門」の船に乗った。
体調の良くなかったカブラルは、九郎右衛門の住む川尻に立ち寄ったが、ここで高熱を発して寝込んでしまう。「カブラル神父書簡」(『川尻町誌(資料編)』)を読んでみよう。
海賊は私を自分の家に泊めてくれ、自身もその妻子も非常に気を配ってくれた。ここに来る途中、荒天の下で一日と一夜を船の中で過ごした。前から私は病気を感じていたが、ここで頭痛と背中の痛みを伴った高熱に襲われた。食欲も全くなかった。この村はあまり清潔でなかったし、魚しか食べるものがなかったので、それを大して気にもせずに済んだ。その上ここには私のことばがわかる人がいなかったので、何も話すことができなかった。また薬に使えるものもなかった。それにも拘らず、海賊も家の人も及ぶ限り私の世話をしてくれた。夜中に私が呻くこともしばしばあった。このような時、海賊は非常に丁寧に、大きな同情を以て何をしてほしいかと尋ねた。
「海賊」と呼ばれているのは「九郎右衛門」である。彼と家族が献身的に看病したことが読み取れる。だが実は、カブラルの日本人に対する見方には非常に厳しいものがあり、それが後年、巡察使バリニャーノとの対立を生むこととなる。
それでも、世話になった九郎右衛門については、次のように評価している。「カブラル神父書簡」(『川尻町誌(資料編)』)
いずれにせよ、私はかつて今までこのように善良な盗賊を見たことがない。彼は私に対して、どんな時も盗賊というよりも天使であった。
そもそも「海賊」だとか「盗賊」という呼び方はいかがかと思うが、「天使」という表現には、カブラルの感謝と感激が込められているように思える。
「九郎右衛門」は何者なのか。彼の屋敷はどこにあったのか。当時の状況から乃美氏か白井氏の家臣だったことが推測されるが、史料は何も語ってはくれない。本日紹介している大須和城も、九郎右衛門やカブラルと関係する証拠はない。
それでも大須和城本丸の説明板がカブラル書簡に言及するのは、異国人との心温まるエピソードを語り継ぐよすがとして、この城が当たらずとも遠からずと考えられるからだろう。
瀬戸内の静かな港町で、日本史に名を残す宣教師と地元の「海賊」との交流があった。グローバル化への対応が喫緊の課題のように言われているが、何百年も前にモデルを求めることができるのだ。
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