昨年流行った「ゲス不倫」をはじめ、今も昔も不倫の話がみんな大好きだ。週刊誌やワイドショーがいち早く食いつき、あの三島由紀夫も『美徳のよろめき』という文学にしている。良家に育った人妻の不倫を描き、「よろめき」は流行語になったらしい。
芸能人の不倫なら面白おかしく見てればよいが、天皇家、しかも皇后だったらどうだろうか。本日は皇后の地位を剥奪された女性の物語をしよう。不倫疑惑、陰謀、そして野望。奈良の都は週刊誌ネタでいっぱいだ。
五條市岡口一丁目に「井上院(いじょういん)」がある。近年まで地域の集会所として利用されていたので、お寺という雰囲気ではない。それでも看板には「大和新四国第六十八番札所井上院」とあるから、四国八十八カ所のミニ巡礼コースに位置付けられているようだ。
「井上」と書くと、「いのうえ」と読むことが多いが、本日のヒロイン井上内親王は、「いのうえ」とも「いのえ」とも「いかみ」、濁って「いがみ」とも呼ばれている。
井上内親王は聖武天皇の初めての子どもで、十代から二十代にかけて伊勢神宮の斎王を務めた。帰京後に白壁王の妃となり、宝亀元年(770)に王が光仁天皇として即位すると皇后となり、子どもの他戸(おさべ)親王は皇太子となった。
ここまでは順風満帆な人生に見える。ところが、それから間もなくの宝亀三年(772)、正史『続日本紀』に驚くべき記述が登場する。三月二日条を読んでみよう。
皇后井上の内親王、巫蠱(ふこ)に坐(つみ)して廃せらる。
巫蠱とは、まじないで人を呪うこと、ここでは天皇を呪ったというのだ。これに連座する形で、他戸親王も廃太子となる。さらに、翌四年(773)十月十九日条には…。
初め皇后井上の内親王、巫蠱(ふこ)に坐(つみ)して廃せらる。後に復た、難波の内親王を厭魅(えんみ)す。是の日、詔(みことのり)して内親王及他戸の王を大和の国宇智(うち)の郡没官の宅に幽せしむ。
先に皇后である井上内親王はまじないで天皇を呪ったために廃せられた。その後も天皇の姉である難波内親王を呪い殺した。この日、詔により、内親王と他戸王を大和国宇智郡の配所に幽閉した。
宇智郡は今の五條市のあたりで、井上院は配所の跡に建てられたらしい。そして、六年(775)四月二十七日条では…。
井上の内親王、他戸の王並に卒しぬ。
母子ともに亡くなったと伝えている。病気になった二人が偶然同じ日に亡くなった、とは誰も考えないだろう。殺害されたか死に追いやられたかだ。井上院は内親王の菩提寺として建立されたという。
それにしても井上内親王は、なぜ天皇を呪ったのだろうか。鎌倉時代の歴史物語『水鏡』には、次のようなスキャンダラスな記述がある。
宝亀三年に、御門井上の后と博奕し給ふとて、戯れ給ひて、「我れ負けなば壮ならん男を奉らん、后負け給ひなば、色容比なからん女を得させ給へ」と、宣ひて打ち給ひしに、御門負け給ひにき。
宝亀三年に光仁天皇と皇后の井上内親王が賭け事をした。天皇は冗談で「オレが負けたら、いい男をやろう。オマエが負けたら、最高の女をくれ」と言っていたが、本当に負けてしまった。
皇后は「あら、約束はどうなさるの?」と天皇を責める。これを聞きつけた藤原百川(ももかわ)が、皇太子の異母兄、山部親王を差し出すよう天皇に進言した。山部は当然拒んだが、父のためだと説得され皇后のもとへ赴く。そして…。
然て此の后、親王の御事を甚(いみ)じきものにし奉り給ひし、いと怪(け)しからず侍りし事なり。
皇后は山部親王を寵愛した。けしからん、実に、けしからん!あってはならない不倫である。これを知った天皇は、自分のふがいなさを恥じると同時に、皇后への怒りが湧いてきた。そこへ百川が、こんな情報を報告してきた。
后蠱事(まじわざ)をして、御井に入れさせ給ひき。御門を疾(と)く失ひ奉りて、我が御子の東宮を位に即け奉らんといふ事どもなり。
皇后が井戸に毒を入れたとのことです。陛下を亡き者にして、皇太子を即位させようとしているのです。そして百川はすべては皇后の近臣の陰謀であるとして、天皇の許可を得て近臣を殺害する。これに皇后は激怒し、天皇との溝はますます深まってゆく。
そして、『続日本紀』が伝えるように皇后は廃され、幽閉の後に亡くなるのだ。『水鏡』の伝えるストーリーは、どこまでが真実なのか。不倫はあったのか。この一連の事件を、江戸時代の啓蒙書『広益俗説弁』は、次のようにまとめている。
今按ずるに、水鏡に井上(いのうえ)夫人は光仁帝の妃なり。此腹に他部(おさべ)親王とてありしを東宮にたて給ふ。この時藤原百川(ももかわ)光仁帝第一の皇子山部(やまべ)親王をすゝめて継母井上皇后に通ぜしめ、帝に后をうとませ奉る。后も山部にしたしみて帝をそむき給ふ心出来りしかば、百川さまざまにはかりごとをめぐらし讒をかまへて、皇后他部をうしなひ山部を位につけまゐらす。桓武天皇これなり。(世に桓武天皇を明主とし、百川を忠臣と記したる書あり。誤りなり。くはしく水鏡を考ふべし。)
『水鏡』に基づいて説明しよう。井上内親王は光仁天皇の皇后で、実子の他部親王を皇太子に立てた。この時、藤原百川は第一皇子の山部親王を推して、継母である皇后と密通させ、天皇が皇后を疎ましく思うよう仕向けた。皇后も山部親王を寵愛して、天皇に背く気持ちが生じた。百川は様々に謀略を巡らし、讒言により皇后と他戸親王を失脚させ、山部親王を天皇とした。桓武天皇である。(桓武天皇を英明な君主とし、百川を忠臣と記した書物がある。間違っている。『水鏡』を詳しく読んで判断すべきだ。)
桓武天皇は平安京遷都とともに教科書に記述される有名な天皇で、確かに「明主」のイメージである。ところが、大胆にもこれを真っ向から否定している。
皇后ともあろう方が「よろめく」など、スキャンダラスな週刊誌ネタは、後世の脚色かもしれぬが、皇后と皇太子の失脚、そして桓武天皇擁立に、藤原百川の暗躍があったことは確かだろう。
それでは井上内親王は、百川の奸計に陥ってしまった気の毒な人なのだろうか。あの本居宣長は『歴朝詔詞解』という『続日本紀』の注釈書で、次のように解釈している。
思ふに此皇后は、聖武天皇の姫御子にましませば、高野ノ天皇の例のごと、又御みづから御位に昇リ坐サまほしく思召ける御心などにやおはしましけむ。
この皇后は、聖武天皇の姫でいらっしゃったので、女帝の称徳天皇のように、自ら皇位につこうとするお気持ちになられたのではないか。古典の専門家である宣長は、皇后にも野望があったのではと推測している。
母后と皇太子の地位ばかりか命まで奪った形で皇位についた桓武天皇は、怨霊に悩まされることとなった。いや、怨霊を恐れなければならない何らかのやましさがあったということだろう。『日本紀略』には、次のように記述されている。(延暦十九年(800)七月二十三日条)
故廃皇后井上内親王追復称皇后
天皇は怨霊を鎮めるため、いや良心の呵責に耐えかねて、皇后の名誉を回復したのである。
内親王の名を今に伝える「井上院」、そして美しい五條の町。この町には水掫(もんどり)さんという珍しい名字がある。言い伝えでは、前途を悲観して吉野川で死のうとした内親王を助けたことから、この名字を与えられたという。また、この町に黒壁の家が多いのは、白壁王つまり光仁天皇を思い出させては気の毒なためだとか。
伏魔殿のような奈良朝廷にあって、いったんはファーストレディの栄光をつかんだものの、権力闘争に敗れた内親王。傷心の彼女の菩提を今も篤く弔っているのは、幽閉の地、五條の人々であった。