「アダムが耕しイブが紡いでいた時、だれが領主だったか」
14世紀末のイギリスを揺るがした農民一揆、ワット=タイラーの乱の理論的指導者ジョン=ボールは、そのように説教し農奴制の廃止を訴えた。世界史の授業で習った記憶がある方もおられよう。
革命運動では実行部隊の背後に理論的(思想的)指導者がいることが多い。日本史上でよく知られているのは、二・二六事件の北一輝、自由民権運動の中江兆民や植木枝盛である。では、明治維新の思想的指導者は誰だろうか。
五條市五條一丁目に「森田節斎(もりたせっさい)宅址」がある。
私もそうだが、森田節斎と聞いて「?」と思われた方のために説明板がある。読んでみよう。
五條が生んだ儒学者で、明治維新の思想的指導者。文化八年(1811年)、医師森田文庵(もりたぶんあん)の子として生まれ、京都に出て猪飼敬所(いかいけいしょ)の門下入り、同時に頼山陽(らいさんよう)の指導も受けた。さらに江戸へ出て昌平黌の古河洞庵(古賀侗庵こがとうあん)のもとでも学んだ後に諸国を遊学。弘化元年(1844年)には独立して京都で塾を開き、その門下からは、吉田松陰(よしだしょういん)や後に天誅組の変に参加する乾十郎(いぬいじゅうろう)らの尊皇攘夷の志士が出た他、梅田雲浜(うめだうんぴん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・春日潜庵(かすがせんあん)とも親交があった。その後備中倉敷に塾を移し、盛んに勤皇論を説いたが幕府に追われ、天誅組の変後は、紀伊国に逃れ、明治元年(1868年)に同国那賀郡荒見村(今の和歌山県粉河町)で没した。
明治維新の思想的指導者といえば、いちばんに吉田松陰を思い浮かべるだろう。だが私が思うに、松陰の門弟らが明治維新を成し遂げ政府の高官となり、恩師をことさら顕彰したから、松陰ばかりが有名になったのではないか。
上記説明文に登場する人物の多くが、尊王攘夷論に関係する学者である。江戸後期にはすでに尊王論がさかんに説かれていた。そこに、ペリー来航で攘夷論というナショナリズムが湧き起こり、尊王論と結びつく。その動きは、尊王の態度に欠け攘夷もできない幕府を倒してしまえ、という倒幕運動に行き着いたのである。
森田節斎もそんな時代の潮流を加速した学者の一人であった。とりわけ吉田松陰や天誅組など、維新の魁となった人々に影響を与えていることが注目される。
五條市本町一丁目の極楽寺霊園に、節斎の父「森田文庵墓」がある。
碑文の最後に「天保癸巳孟夏 正二位前権大納言藤原朝臣資愛撰并書」と刻まれている。「天保癸巳孟夏」は、天保四年(1833)四月のことだ。昌平黌を出た節斎は兄とともに、父の十三回忌に際し、旧師の猪飼敬所を通じて公家の日野資愛(ひのすけなる)に碑文を依頼した。
これは父の墓であり、顕彰碑でもある。東京大学を卒業したエリート青年の親を思う気持ちが、身分を越えて当代きっての文化人を動かしたのである。ずいぶん後のことだが、節斎自身にも大きな顕彰碑が建てられた。
五條市本町三丁目に「森田節斎頌徳碑」がある。説明板には「森田節斎顕彰碑」とあり、碑の篆額には「森田節斎碑」と刻まれている。要するに、森田節斎の功績を称えた碑である。明治44年3月という年月が刻まれているが、大正2年に建てられた。
撰文は、現在の二松學舍大学を創建した三島毅(中洲)である。備中出身の中洲は、倉敷に塾を開いていた節斎と親交があったのだろう。書は日下部鳴鶴、篆額は久邇宮邦彦王という豪華さである。
碑面にはびっしりと漢字が刻まれている。一部を拡大してみよう。
吉田寅次郎、松陰の名を見ることができる。その下には久坂玄瑞、原田(亀太郎)の名もある。松陰は老中暗殺を計画して処刑、玄瑞は禁門の変で自刃、亀太郎は天誅組の変に参加して処刑された。節斎の門下生はいずれも行動派であった。
節斎は、維新の志士に大いに影響を与えたことが高く評価され、明治41年に従四位が贈られた。ところが、当時の志士たちの評判は必ずしも高いものではない。亀太郎は恩師節斎に、手紙で次のように知らせ、対処を促している。武岡豊太『森田節斎先生の生涯』(大正15)より
近頃先生及鉄兜の評、浪士中に大に悪敷、皆切歯して速に梟首すべしと云
近ごろ、節斎先生と河野鉄兜(こうのてっとう)の評判は、浪士のあいだで大変悪く、みんな歯ぎしりしながら「速やかに首さらしにせよ」と言っています。
そして亀太郎は、浪士とともに行動するか、何らかの弁明をした方がよい、と忠告した。日頃は勇ましいことを言っているが、口先だけでさっぱり動こうとしないじゃないか。「ホンマ、有馬の温泉やで」「なんじゃそりゃ?」「ゆぅだけや」節斎はそう見られていたのだ。
しかし、思想的指導者とはそういうものではないか。動く人と動かす人がいて大事は成し遂げられるのである。動かすにも剣と筆とがあるが、節斎は後者で、その詩は実に憂国の志士たちの愛国心を掻き立てたのであった。
代表作に「楠左衛門尉髻塚碑文」がある。これは、吉野山の如意輪寺にある小楠公、楠木正行の髻塚(もとどりづか)と多武峰(とうのみね)の藤原鎌足の墓を訪れた節斎が、慶応元年(1865)に作ったものである。
髻塚は、四条畷の戦いに臨む小楠公が髻(もとどり)を切って決死の覚悟を示したことに由来している。その塚を節斎が訪れた時、草ぼうぼうで見る影もなかった。これに対して、鎌足の墓は美しく立派な建物となっている。
小楠公は高師直、鎌足は蘇我入鹿と、同じく朝敵と戦いながら、小楠公は死して鎌足は長生した。死後の扱いにさえ、大きな差があるではないか。二人の功績にどんな差があるというのか。いや、ありはしない。
こう語った後、節斎は次のように続けている。訓読により読んでみよう。小野利教編『南朝忠臣碑文集』(大正11)より
方今(ほうこん)、夷狄猖獗(いてきしょうけつ)、九重宵旰(きゅうちょうしょうかん)、士、力を国家に効(いた)すの秋(とき)なり。事成らば、則ち大織冠(たいしょくかん)と為りて、百世(ひゃくせい)に廟食(びょうしょく)し、成らざれば、則ち左衛門尉(さえもんのじょう)となりて、節(せつ)に死し、名を竹帛(ちくはく)に垂れん。豈(あ)に、大丈夫(だいじょうふ)平日の至願ならずや。
まさに今、野蛮な外国の勢いが盛んになり、帝のご政務は多忙を極めている。憂国の志士は、その力をお国に捧げる時が来たのだ。攘夷に成功したなら、鎌足公のように末永く祀ってもらえ、失敗したとしても、小楠公のように忠義のために死んで名を歴史に残すだろう。これはまさに、日頃から抱く男子の本懐ではあるまいか。
若者よ、今こそ尊王攘夷に決起せよ!事の成否など関係ない。これは男としての誉れである! 理性ではなく情熱が歴史を動かした。
"Make America Great Again!" "America First" と反グローバル主義をアジる大統領がアメリカに登場した。入国禁止だとか国境の壁だとか、「尊米攘夷運動」を展開している。もしかすると、感情に働きかけるポピュリズムは新時代を生み出す原動力なのかもしれない。
イギリスのメイ首相がアメリカのトランプ大統領を国賓として招待
今、話題のフェイクニュースである。
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