トランプさんが何を言おうとあわてない日銀の黒田さん。そのトランプさんとすっかりお友達気分になってる首相の安倍さん。そこで問題です。黒田さんと安倍さんには共通の肩書があります。何でしょうか。
答えは「総裁」、日本銀行総裁と自由民主党総裁である。過去から今に至るまで、さまざまな組織の長が「総裁」と呼ばれた。比較的有名だったのは国鉄総裁、今でもあるのは人事院総裁だ。
「総裁」という役職が初めて歴史に登場したのは、政事総裁職が設置された文久二年(1862)である。松平慶永が任じられた。また、この年に陸軍総裁や海軍総裁が兼務で蜂須賀斉裕に任命された。
岡山市中区東川原に「藤本鉄石(ふじもとてっせき)君生誕地」がある。
藤本鉄石は文久三年(1863)に「総裁」となった。天誅組総裁である。この頃は「総裁」という呼び名に革新的なイメージがあり、ちょっとしたブームになっていたのだろう。
鉄石は岡山藩士であったが、脱藩して尊攘派志士となり、天誅組の変では総裁としてリーダーシップをとった。もう少し詳しいことを説明板で読んでみよう。
藤本鉄石生誕地
藤本鉄石は、文化13年(1816)3月17日に三野郡東川原村で片山佐吉・佐幾の四子として生まれた。天保元年(1830)に親戚である藤本彦右衛門の養子となった。幼名は学冶といい、のちに津之助と改め、諱は真金、字を鋳公という。鉄石は号で、多数の別号を用い、詩人、歌人、画家としても名高い。
天保11年(1840)に京都で長沼流軍学を修めた。尊皇攘夷思想に共鳴し、吉村寅太郎らと「天誅組」を組織して、文久3年(1863)に倒幕の先兵として挙兵した。同年8月17日に大和五条の代官所を襲撃し、代官鈴木源内を討ち取ったが、翌日起こった京都の政変により「天誅組」は孤立し、同年の9月25日に十津川鷲家口で討ち死にした。
なお、石碑裏には「文化十三年三月十七日生 文久三年九月二十五日於大和国鷲家口戦死時年四十八」と記してある。
平成21年3月 岡山市
石碑裏には、明治24年に従四位が追贈されたこと、大正3年の命日に建碑されたことも記されている。「倒幕の先兵」となったことが維新の魁と高く評価されたのだ。
奈良県吉野郡東吉野村鷲家の郵便局近くに、鉄石が討死した場所を示す碑が建てられている。鉄石は従者の福浦元吉とともに、ここに置かれた紀州藩の陣所に突入し、藩兵と斬り合って見事な最期を遂げた。
志士の名に恥じぬ武人であったが、また優れた文人でもあった。友人の清川八郎を描いた「紙本淡彩清河八郎像」は山形県の文化財に指定されている。南画にも秀作が多い。
ここでは、少々ユニークな書状を紹介しておこう。京都大学附属図書館が所蔵し、維新資料画像データベースで公開されている「藤本鉄石書状」である。忠兵衛という人にお金などを無心している。
(小判の絵)と(掛軸の絵)が
ほしい/\/\/\
けふはどゑらふ
ほしい
事がある
御(目の絵)もじに
御はなし申上候
(合わせている手の絵)たのむ/\/\/\
桃山老鐵
五月四日 寒士(花押)
忠兵衛様
小判と掛軸がほしーーーーーーーーい
今日はとってもほしいことがあるのでお手紙しました。
お目にかかってお話し申し上げます。
何とぞ何とぞ、たのみます。たのみますったらたのみます。
どんな事情があったのか分からぬが、絵文字入りの今どきのメールのようで、見ているだけで楽しい。
きまじめな印象を受ける鉄石だが、こうやって人の心をつかむことには長けていたのかもしれない。でないと、軽輩の脱藩藩士が「総裁」に推されることはなかっただろう。幕末は実力主義の時代だった。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。