正倉院の校倉造(あぜくらづくり)は、湿度の高い時には木材が膨張して外気を遮断し、内部の宝物を湿気から守る。昔、そう習ったような気がするが、フェイクニュースか都市伝説の類らしい。調湿機能は先人の知恵と、妙に納得していただけに残念だ。
その正倉院の「正倉(しょうそう)」は、奈良だけでなく全国各地にあったらしい。本日は出雲国の正倉跡を訪ねたのでレポートする。ちなみに、「海の正倉院」と呼ばれる沖ノ島(宗像市)が世界遺産に登録される見通しになったそうだが、校倉造の建物があるわけではない。
松江市大庭(おおば)町と山代(やましろ)町の境のあたりに「出雲国山代郷正倉跡」がある。国指定の史跡で、正確には「出雲国山代郷遺跡群 正倉跡」という。
「正倉」とは、税として納められた米を蓄えておく倉庫である。柱のあった場所が復元されているので、その上に正倉院のような建物を想像するとよい。周辺から焼けた米が出土するので、倉庫は火災にあったものと考えられている。
この遺跡が貴重なのは、発掘調査だけでなく、文献上もその存在が確認されていることだ。天平五年(733)成立の『出雲国風土記』に次のような記述がある。
山代の郷。郡家の西北三里一百二十歩なり。天の下造らしし大神大穴持(おほなもち)の命の御子、山代日子(やましろひこ)の命いませり。かれ、山代といふ。すなはち正倉(みやけ)あり。
山代郷は郡役所から北西に約1.8kmほどである。国土を開拓したオオクニヌシの子、ヤマシロヒコをお祀りしている。だからヤマシロという。ここには正倉が置かれている。
正倉院の白瑠璃碗と同じようなペルシャ製カットグラスが、破片ではあるが沖ノ島でも出土している。さすがは「正倉院はシルクロードの終着点」で、海の正倉院も本物の正倉院も、お宝満載である。
いっぽう山代郷正倉は、カットグラスその他のお宝とは無縁だ。そこにあったのは、自然の恵みと農民の労働力によって得られた「米」である。それは、ガラスのような輝きはないが、人々になくてはならない「お宝」であった。
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