子どものころ、鳥居の上に石をのっけて遊んでいた。投げた石の着地点が、放物線の頂点をわずかに過ぎた点と一致すれば上手くいく。とはいえ、行為として適否を問うならば、いいことではない。鳥居の先は神域である。一礼してくぐるようにしたい。
日本一大きな鳥居は熊野本宮大社にあり、鉄筋コンクリート製で33.9mもあるという。木造なら北口本宮冨士浅間神社で17.7mである。そして本日は、石造日本一の鳥居を紹介しよう。
真庭市蒜山西茅部(ひるぜんにしかやべ)に、市指定重要文化財(建造物)の「茅部神社の大鳥居」がある。
重厚な造りの鳥居が、広い大地にどっしりと構えている。神社が鎮座するのは写真の手前約1㎞の地点で、鳥居のみならず神域も大きいようだ。そんな鳥居が造られたのには理由がある。説明板を読んでみよう。
一八六〇年(安政七)正月、茅部神社の氏子石賀理左文、友金宇平は、近江の多賀大社に参拝した時、同神社の石鳥居が日本一だと聞き、これより大きいものを地元に造り日本一にしようと考え、実測して帰った。三年後の文久三年にその願いを果たしたという。
石材は茅部神社のある岩倉山の花崗岩である。
石工は、伯耆国倉吉(現倉吉市)の横山直三郎、郷原在住の米倉鉄造の二人が腕をふるったようである。
二本の柱と笠木・島木・貫・額束で組み立てた明神型鳥居で、柱は地中に基礎をつくって下部を深く埋め地上の長さ約十一・四五m、直径約一・二〇m、下部約三mを別石で十二角に仕上げ、その上に円柱を継ぎ接合点は鉄の鎹(かすがい)でとめてある。地上から笠木の上端までの全高約十三・八mであったが、何度かの補修で下部を埋め立てたため、現在の大きさは次のようになっている。
そして鳥居の寸法が図示され、高さは「約10.65m」とある。日本一の石造鳥居は和霊神社(宇和島市)にあり、13mを超えているという。茅部神社の鳥居も建立時は約13.8mだったから、けっこういい勝負だ。江戸時代に日本一だったという多賀大社の一の鳥居(彦根市)は、寛永十二年(1635)に建立され、高さが約11mある。現在は県指定有形文化財(建造物)に指定されている。
この前も「ライバルは、1964年」というキャンペーンを新聞で見た。0系新幹線が走り、植木等が笑っている。ACジャパンの企画だ。前回の東京オリンピックの時代を理想化し、あの頃の活力と心の豊かさを取り戻せ、と呼び掛けている。3年後の五輪開幕に照準を合わせているが、「よっしゃあ」と気合いが入った日本人がどれくらいいるのか。「昔はよかった」という懐古趣味に思えてならないし、当時の雰囲気さえ分からない人も多い。
これに対し、多賀大社一の鳥居の大きさは、茅部神社の氏子の負けん気に火をつけた。地元を日本一にしようという愛郷心が人々を動かし、3年後、見事に願いを果たす。地方創生のお手本である。彼らの合言葉は「ライバルは、寛政十二年」だったとも、そうではないとも言われている。
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