5月12日は「民生委員・児童委員の日」だった。私たちが安心して暮らせるのも、民生委員さんが地域住民の見守りや相談で活躍してこられたおかげだ。「卒業式の来賓でお見かけする程度で、あまりよく知らないな」という方のために、百年前の話をすることとしよう。
岡山市北区丸の内二丁目の岡山城跡に、樹木に半ば隠れながら立つ「笠井信一先生」の銅像がある。第10代官選岡山県知事である。
大正五年(1916)5月18日のこと、地方長官会議に出席した笠井知事は、宮中において天皇陛下と食事を共にする光栄に浴した。この時、陛下は知事に「県下の貧困者はいかなる生活をしておるか」とお尋ねになった。
大御心を拝した知事は、さっそく次のように対応したという。全日本方面委員聯盟『方面事業二十年史』(昭和16)より
笠井知事は急遽帰県、直に管内の貧民状態の調査を施行した。その時の生活標準の立て方は、都市に在りては県税戸数割賦課等級の最下級者(即ち一ヶ年平均六銭を負担する者)及び岡山市に於ては家賃一ヶ月一円三十銭以下の借家に居住する者であった。調査の結果は戸数二万九千九戸、人口にして十万三千七百十人、実に県民の一割が極貧者であることが明らかになったのである。
此の事実を前にして笠井知事は決然として心に誓って曰く「行政の最も重要な使命は国民の実際生活を安定せしめることである。此のために法令の適用に於て多少の誤りがあるも止むを得ない。たとへ責任を問はれたとしても敢て俯仰天地に愧ぢざるところである」と。爾来、防貧策の樹立に専念して東西古今の学に求め、参玄撥草の客となり理論と実際に即した恒久的対策に想を練ること十ヶ月、大正六年二月二十六日、岡山県郡市長竝警察署長会議に於て、始めて済世顧問制度として名乗りを挙げたのである。これが岡山県訓令第十号済世顧問設置規程の名に於て公布せられたのは大正六年五月十二日で、笠井知事畢生の努力は、茲に凝って我国社事業史上空前の画期的事業として、聖旨に奉答することゝなったのである。
こうして始まった岡山県の済世顧問と翌年に大阪府が始めた方面委員が源流となって、戦後に民生委員となり今日に至っている。それゆえ、済世顧問設置規程が公布された5月12日を記念して「民生委員・児童委員の日」が制定された。
済世顧問の役目を、当時の岡山県は次のように説明していた。
①職業の無きもの又は不経済なる職業に従事せるものに対して或る職業を与へ、又はより以上の経済的職業を紹介する。
②他の誘惑等により不安の職業に転職せんとするものを防止する。
③貧民に非ざるも浪費を為し漸次貧民に変化せんとしつゝあるものを諭して正業に就かしめる。
④貧民の家庭上に於ける紛雑を解決して後顧の憂なからしめる。
⑤貧苦に迫られて煩悶し失敗に依りて自暴自棄に陥る者を慰安して活動力を養成せしめる。
⑥賭博は勿論、飲酒、遊情の悪習慣を除却し漸次勤倹の美風に馴致せしめる。
⑦不衛生に原因して病気に罹れる貧民の家庭を善導して労働力を恢復せしむる。
表現は古いが、貧困は昔も今も深刻な社会問題であることが分かる。済世顧問制度から百年、社会のセーフティネットの一翼を済世顧問、方面委員、民生委員の方々が担ってきた。「済世」とは、社会の弊害を取り除き人々を救うことを意味する。済世顧問制度が全国にある済世会病院と直接関係するわけではないが、目指す社会福祉の理念は同じだ。
その後、笠井は北海道庁長官、貴族院議員を歴任し、昭和四年に生涯を閉じる。墓は故郷の富士市今泉の妙延寺にあり、法名を「済世院殿秤心厳毅日信大居士」というそうだ。県民の生活向上に尽力した名知事に、実にふさわしいではないか。
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