座るのにちょうどよい石があれば、貴人が腰掛けた「腰掛石」と呼ばれる。「菅公腰掛石」「文覚上人腰掛石」「宮本武蔵腰掛石」のように。同じく、馬の蹄(ひづめ)の形の穴が開いていれば、貴人の馬が蹴った「馬蹄石」と呼ばれる。聖徳太子ゆかりの「馬蹄岩」のように。本日の岩も「馬蹄石」の一つである。
岡山市中区赤坂南新町の墓地の中に「馬の足形岩」がある。
蹄の跡がくっきりと一つだけ岩に刻まれている。この岩にはどのような伝説があるのか。平井学区コミュニティ協会の説明板を読んでみよう。
源平合戦に出陣した佐々木盛綱が馬を馳せてこの岩を飛び越えたとか、この岩山に立って藤戸海峡を見渡した等の伝説があり、岩の表面にできた馬蹄形のくぼみを盛綱の愛馬の足形と呼んでいる。
これは『平家物語』巻第十「藤戸」に関係がある。時は寿永三年(1184)、平氏は一ノ谷の戦いに敗れたものの、讃岐屋島や備前児島に兵を配置し、瀬戸内の制海権を握っていた。これに対し源氏は山陽道を西に進み、本土側から児島を攻略しようとするが、藤戸海峡の潮流に阻まれて攻めあぐねていた。この時、源氏方の武将、佐々木盛綱は、浅瀬の情報の入手して騎馬のまま海を渡り、先駆けの功名を得た。
盛綱は戦いを前に、この足形岩に立って藤戸海峡を見渡しながら戦略を練ったのだろうか。いや、ここから藤戸までは15kmくらいある。ちょっと遠すぎるのではないか。盛綱は備前岡山でけっこう知られた英雄である。後世の人々が岩にある馬蹄形の窪みを見て、盛綱の故事と関連付けて語り伝えたのだろう。
荒唐無稽と捨ておくのはもったいない。野を駆ける馬が、この岩をカッと蹴って、天高く跳んだ。そんな想像をすることで、伝説探訪はいっそう楽しくなる。
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