乃木希典の評価は二分されている。日露戦勝から敗戦までは「軍神」と崇められ、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で批判してから「愚将」との見方も生じたが、近年は日本人の誉れを示した「名将」と再評価されている。
「軍神」は、旅順攻略に成功し日露戦を勝利へと導いたことによる偶像化で、「愚将」は、兵力を多く損耗したのは指揮官の作戦ミスとするレッテル貼りである。いっぽう「名将」は、文部省唱歌にまでなった「水師営の会見」における敵将ステッセルに対する乃木の紳士的な対応を、日本の美しい心を体現したものと高く評価しているのである。
乃木坂46の名称に乃木大将が関係ないことはないが、彼女らの活躍と大将の評価に相関関係はまったくない。今回は乃木大将が活躍した旅順攻略の記念碑を訪ねたのでレポートする。
岡山市南区北浦の箱崎八幡宮の境内に「旅順祝捷紀念松」がある。「捷(しょう)」には勝つという意味があるので、旅順攻略をお祝いした記念の松だと分かる。
旅順攻囲戦は明治37年8月19日に始まり、翌年1月1日にロシアのステッセル将軍の降伏申入れにより終結した。碑の裏に「明治卅八年一月三日 部落会立之」とあるから、地域の人々がすばやく反応していることが分かる。地元から多くの若者が出征しており、戦況に高い関心を寄せていたのだろう。
日露戦争は、このあと奉天会戦、日本海海戦と続き、9月のポーツマス条約調印によって完全に終わる。旅順攻略は戦争の一場面に過ぎなかったが、祝わずにいられない人々の気持ちを、この碑と松の木が表しているのだ。
旅順陥落に日本各地が湧き上がっていた1月5日、乃木将軍とステッセル将軍が停戦協定を結ぶために会見した。有名な「水師営の会見」である。唱歌の一番と四番を読んでみよう。
旅順開城 約成りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と 会見の
所はいずこ 水師営
昨日の敵は 今日の友
語る言葉も うちとけて
我は称えつ かの防備
かれは称えつ 我が武勇
乃木将軍は、降伏したステッセル将軍に帯剣を認めるなど、武人への礼を失することなく接遇し、歌詞が語るように、両将軍の気持ちは通じ合った。大正元年に乃木大将が殉死すると、あるロシア人が遺族に多額の見舞金を郵送してきた。差出人は「モスクワの一僧侶」と記されているのみだったが、ステッセル将軍だと推測されている。
両将軍のうちとけた雰囲気をよそに、大国ロシアを降したことに歓喜する国民。このブログの一回目の記事「勝ち戦のイメージ」で語ったように、日露戦争における勝利のイメージは、太平洋戦争にも大きな影響を及ぼすこととなる。
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