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過日、瀬戸大橋を電車で渡った折に、陽光にきらめく海原を眺めていると、瀬戸内海は巨大な交通路だと実感した。私は岡山から香川に向かって南に進んでいたが、貨物船その他の船が東西方向に行き交っている。そうだ。この海は畿内から九州、さらには朝鮮・中国へと続く、日本最大の動脈なのである。
古来、この海を多くの要人が往来した。古くは神武天皇、遣唐使、平清盛とその一門、さらには足利義満から朝鮮通信使に至るまで、ある者は使命感、ある者は野望を抱き、またある者は失意のうちに船を進めたことだろう。本日は、高倉上皇の厳島行幸にまつわる史跡を紹介する。
岡山市南区北浦の箱崎八幡宮に「石神(いしのかみ)」がある。立札に「高倉天皇がこの石のところで休憩された」とあるから、これは腰掛石ということだろう。
高倉天皇は、大河ドラマ『平清盛』で、シュッとした顔立ちの千葉雄大が演じていた。父は後白河帝、母は建春門院滋子、妻は建礼門院徳子、子は安徳天皇と、家族の顔ぶれは華やかなようであり悲劇的でもある。笛をよくしたというが、笛の音が高倉帝の孤独感をいっそう増すように思える。
この高貴な御方、高倉帝も瀬戸内海を旅している。どのような事情があったのか、『岡山市史 宗教教育編』には次のように記されている。
社伝によると、嘉応元年(一一六九)八月高倉帝筑紫行幸のみぎり暴風に遭いこの浦に御仮泊になり、幣を奉って海上平安の勅願ができたとある。もっとも高倉帝の筑紫行幸というのは、厳島行幸の誤りで、同帝の厳島御幸記には、その帰路児島の泊に風波を避けて数日滞留になったことを記している。
確かに治承四年(1180)の厳島行幸は『高倉院厳島御幸記』でよく知られている。このブログでも「高倉上皇の嘆息」で玉野市八浜町八浜の「児島の泊」を紹介した。帰路においては、4月1日の日没時に児島の泊に入り、4日の早朝に出発した、と記録されている。
北浦も八浜も児島北岸に位置するが、場所は離れている。嘉応元年と治承四年とでは、年代がまったく異なる。さらに目的地も、筑紫と厳島という違いようである。いったい何が正しいのか。高倉帝の筑紫行幸は検索してもヒットしないが、高倉院(上皇)の厳島行幸は確かな記録がある。
では「嘉応元年(一一六九)八月高倉帝筑紫行幸」とは何なのか。嘉応元年かその前年に厳島神社が造営されている。筑紫には箱崎八幡宮の総本社である筥崎宮が鎮座する。高倉院は厳島に行幸している。これらの情報が入り乱れて、市史に記載されているような社伝ができたのかもしれない。
本日紹介している高倉天皇腰掛石は史実に基づくのか。おそらく否だろう。だが、平清盛と後白河法皇のあいだで苦しい立場にあった高倉天皇を慕う村人が、この地方にいたことだけは確かだ。腰掛石は今、神様となって崇敬されている。
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