湧き立つ雲、あふれる光、いよいよ甲子園の夏がやってきた。二度の決勝を戦い抜いたおかやま山陽高校の健闘を祈る。持ち前の粘り強さを発揮し、全国的な知名度を上げてほしい。春夏通じて初出場の私立学校。この学校の沿革、そして地域の歴史をひもとくと、興味深い伝説にたどりつく。本日は不思議な石のお話をしよう。
浅口市鴨方町六条院中に「生石(おんじ)のう様」がある。
みやびな地名「六条院」が気にかかる。調べると、この地が中世に「六条院領大島保」の一部だったことに由来するらしい。荘園領主の「六条院」は、白河上皇の第一皇女、郁芳門院(いくほうもんいん)の屋敷跡にあった寺院である。伝説の石に何か関係あるのだろうか。
改めて写真を見よう。いい形をした石だ。これはおそらく「つくばい」だろう。「生石のう様」という呼び名も気にかかる。旧鴨方町教育委員会が設置した説明板を読んでみよう。
岡山藩主池田光政公が当地を巡見の際、名主平井家の庭の石に目がとまり御後園(現後楽園)の庭石にするため納めた。すると、この石が毎夜「生石へいのう、生石へいのう」と泣くので、藩主が「無礼な石だ」ということで手打ちにしたところ不思議にもこの石から血が噴き出てきた。殿様も驚き「この石は生きているぞ」といわれ、もとの家にもどされたという。近くの人たちは、この石を「生石のう様」と称して今日でも氏神祭礼の当日に祭りをしている。特に、他郷にいる人が「帰りたい」と願をかけるとよいといわれている。
荘園領主ではなく、岡山藩主の池田光政公が関係していた。備前を主領域とする岡山藩は備中鴨方にも知行地があった。名君の評判高い光政公が、泣き叫ぶ石を手打ちにするとは、よほどのお腹立ちだったのか。だが、斬った石から血が噴き出したのを見て、腰を抜かしたことだろう。
石が叫んだ「生石へいのう」は、「いぬ」が「帰る」なので、「生石へ帰ろう」という意味だ。「生石のう様」の名称も、これに由来する。石が帰りたがるという言い伝えは「帰りたいと言った石」でも紹介したことがある。各地に伝わる「夜泣き石」伝説である。
ホラー話のような「生石のう様」には、戦時中、出征兵士が無事に帰ることを願う人が多かったという。石がもとの場所に帰ってきたことから、武運長久の神様となったのだ。
この石の周辺は「生石」という地名で、バス停に表示されている。おかやま山陽高校にも近い。高校のホームページで校名の変遷をたどると、かつては岡山県生石高等学校、岡山県生石高等女学校など「生石」を名乗る学校であったことが分かる。「生石のう様」とのゆかりは深い。『六条院町誌』の「生石のう様」の項で「昭和八年二月廿日にはこの伝説を生石学園文芸会に脚色上演した」と記されているように、伝説の石は教育活動にも貢献している。
明後日、我らがおかやま山陽は福島の聖光学院と戦う。相手は11年連続出場という無敵の強豪だが、こちらには武運長久の伝説の石がついている。自分の力を信じて、のびのびとやろうではないか。
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