幕府の創業者三人は、いずれも決戦場所から一旦は遠ざかり、求心力を高めて引き返し、戦いに勝利した。頼朝は房総半島に敗走した後に富士川の戦いに勝利した。家康は上杉討伐に向かう途中に引き返して関ヶ原の戦いに勝利した。では、足利尊氏はどうだろうか。
総社市西郡の国市指定史跡「福山城跡」に「延元元年古戦場福山城阯」「贈従四位大井田氏経卿表忠之碑」と刻まれた碑がある。
延元元年とは1336年のことで、「延元」は南朝方が使用した年号である。北朝方は従来からの「建武」をそのまま使用することになる。だから、京を制圧した足利尊氏が示した施政方針「建武式目」は、延元元年に出されたが「建武」なのである。
建武三年であり延元元年である1336年は、日本史上屈指の動乱の年であった。建武の新政に不満の尊氏は正月に入京を果たすが、北畠顕家・新田義貞・楠木正成によって京が奪還される。尊氏は2月に九州へ向かって西下するものの、朝敵の汚名を避けるため、途中の鞆で光厳上皇の院宣を得て「官軍」の体裁を整える。3月に九州で菊地氏を破って態勢を立て直す。4月に大宰府を発って東上を開始する。そして、5月17日に「備中福山合戦」に勝利し、同月25日の湊川決戦に至る。説明板を読んでみよう。
湊川決戦一週間前備中福山合戦
海抜三百二米のこの福山は往古神奈備(かんなんび)山、加佐米山、百射(ひもい)山とか言われたが、山岳仏教が栄えた奈良平安期報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て伽藍が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。
後醍醐天皇念願の親政が復活したが建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に忿懣(ふんまん)を抱き天皇支持勢力の新田義貞、楠木正成等と対立した。この結果尊氏勢が九州へ敗走し軍勢を立て直して再び京都を目指し東上を開始した。
福山合戦はその途上の延元元年五月におこった。足利直義十六日朝原峠より攻撃を開始したが城兵撃退す。十七日四方より総攻撃をかけ城兵は石火矢、岩石落とし、弓矢にて二万余の死傷者を出したが新手入り変り立ち変り遂に乱入され火をかけられ落城となった。大井田氏経一千騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は百騎程になり山上は火の海、氏経はこれ迠と部下を集め三石の本陣に加わらんと一方切り破り逃がれた福山落城後直義は敗走する氏経を追い板倉より辛川まで十余度交戦を続け三石城へ逃れ去った。
直義は足利勢を爰(ここ)で休養させ首実験をして戦攻を賞した。討首千三百五十三を数えたという。
少々漢字に誤りがあるが、理解に支障はない。尊氏の東上を阻止する新田勢の大井田氏経が福山城に籠城したのは、ふもとを山陽道が通過し、しかも見晴らしが良いという利点があったからだ。尊氏は海上を進み、弟の直義が山陽道を30万の軍勢で進んだ。対する氏経の手勢は1500。城中では「大敵を防ぐなど、できるはずがない」との声が出た。氏経はしばらく考えてから、次のように言った。
『太平記』巻第十六「備中福山合戦事」より※氏経は大江田式部大輔
合戦の習、勝負は時の運に依(よる)といへども、御方の小勢を以て、敵の大勢に闘はんに、不負云事(まけずといふこと)は、千に一も有べからず。乍去(さりながら)、国を越て足利殿の上洛を支(さゝへ)んとて、向ひたる者が、大勢の寄(よす)ればとて、聞逃(きゝにげ)には如何(いかゞ)すべき。よしや唯(たゞ)一業所感(いちごふしょかん)の者共が、此所にて皆可死(しすべき)果報にてこそ有(ある)らめ。軽死(しをかろんじ)重名(なをおもんずる)者をこそ人とは申せ。誰々も爰(こゝ)にて討死して、名を子孫に残さんと被思定候(おもひさだめられさふら)へ。
合戦のさだめ、勝負は時の運とはいうものの、数の少ない我らが敵の大軍に負けないということは、千に一もあり得ないだろう。しかしながら故郷を離れ、尊氏の上洛を阻止せんと立ち向かう者が、大軍が来るからと聞いて逃げ出しては、どう思われるだろうか。仮に誰でも因果応報が同じなら、ここで皆、討死することになるだろう。命よりも名を重んじるのが人だという。誰もみな、ここで討死して、名を子孫に残そうと決心した。
このように覚悟を決め、直義の大軍を迎え撃った。氏経は千騎を率いて突撃し、敵軍を大混乱に陥れた。しかし衆寡敵せず、手勢が四百騎余りに減り、城も敵に奪われてしまう。ここに至って氏経は、新田勢本隊に合流すべく敵中突破により備前三石方面に落ち延びていった。
戦いには敗れたものの、氏経の勤王の態度は近代になって高く評価され、大正十三年に従四位が贈られた。故郷の越後から遥々と備中にまで遠征した氏経は、新田勢の最前線として歴史の流れに抗した。福山の頂上の碑は、新時代を築いた勝者直義ではなく、敗者氏経の「表忠」を称えるのみである。
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