チキンラーメンを開発した日清食品の安藤百福(ももふく)は、亡くなった平成19年に「正四位」に叙された。元東京都知事の青島幸男、映画監督の市川崑、俳優の大滝秀治も正四位である。三位、四位、五位など、運動会じゃあるまいし、個人(しかも故人)の序列化にどれほどの意味があるのか疑問だが、古代の制度は今も栄典として生き続けている。
歴史上の人物で正四位は、源義家、北條泰時、吉田松陰、坂本龍馬などである。大正四年に没後数百年を経て、南朝の武将、脇屋義治に正四位が贈られた。
東かがわ市土居に「脇屋義治公終焉地碑」がある。子孫の方々により建てられた。
脇屋義治は、新田義貞の実弟脇屋義助の子である。義貞・義助兄弟の没後は、義貞の子である義興、義宗と共に、南朝の主力となって活躍した。正平七年(1352)には一時期鎌倉を占領するが、総じて北朝勢に押され気味であった。ただ、南朝への忠誠は一貫しており、そのことが贈位の理由だったのだろう。
一般に義治は、正平二十三年(応安元年)七月に新田義宗とともに挙兵したが、上野で上杉勢に敗れ、義宗は戦死、義治は出羽へ落ち去り、その後は不明とされている。ところが、ここ丹生地区には義治の後日談が伝えられている。木村皓一(丹生村長)『丹生村今昔物語』(昭和三)には、次のように記されている。
正平二十三年の七月、上野国で足利軍に敗られ新田義宗脇屋義治、出羽国羽黒山に匿れ、後、伊勢国に移らんと乞へども北畠氏、京師に近きを以って許さず遂に伊予国宇摩郡下山村字柴生村に潜行して匿る。其後、新田一族を討索すること甚だ急なるを以って義治及び其の子義長と讃岐国丹生山長福寺に匿れ土居氏の族と称す。其の後、丹生村の一地方に遷り此処を土居と名づけ永住せども遂に義治卒す。法名を常琳居士といふ。義長、家を継ぎ掃部を称す。文明二年歿す。子孫繁栄す…と脇屋家伝にあるが僕は充分な調査資料なきを以て国史を修正せしめ得ざるを遺憾とす。
土居氏は伊予の有力豪族河野氏の支族で、この時代には新田勢の一員として南朝を支えていた。それゆえ義治は土居氏の一族と称し、この地を「土居」と名付けたという。地元の旧家が伝える祖先伝承である。丹生村長は国史を修正するほどの確証は得られなかったと言うが、正四位の人物の伝承があることに価値がある。
新田一族や楠公一族は実際以上に高く評価され、足利尊氏は不当に貶められた。明治末期の南北朝正閏論は、南北朝時代の評価をかなりゆがめた。だが、南朝を正統としたことは、敗者南朝に対するせめてもの供養であったようにも思える。脇屋義治の正四位にも「おつかれさま」とのねぎらいが込められているのかもしれない。
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