平成十五年(2003)は江戸開府四百年、同二十二年(2010)は名古屋開府四百年であった。江戸は幕府が開かれて400年、名古屋は清州越しと名古屋築城から400年となったのだ。安土桃山から江戸初期にかけては、築城あるいは城下町建設ラッシュだったので、各地で四百年記念行事が行われている。
これから開府四百年を迎えるのは、平成30年(2018)の長岡、同31年(2019)の浜田、福山である。長岡は牧野忠成が入封、浜田は古田重治が入封、福山は水野勝成が入封して、それぞれ400年である。同じ年、甲府は開府五百年を迎える。武田信虎が躑躅(つつじ)が崎の地に館を構えて500年というのだ。
今日話題にする岡山城下町は昭和48年(1973)に開府四百年を迎えた。城下町誕生としては比較的早いほうだ。宇喜多直家が岡山(石山)城に入城して400年であった。下剋上の典型ともいえる戦国の雄、直家はどこで生まれたのだろうか。
瀬戸内市邑久町豊原に「宇喜多直家生誕之地」と刻まれた碑がある。
後年、松永弾正、斎藤道三と並ぶ戦国三悪人と称された梟雄、宇喜多直家を、大河『軍師官兵衛』では陣内孝則が演じていた。これがまた見事な悪相で、腹に一物も二物もありげな顔つきだった。
直家の父は興家というが、当時の実権は祖父の能家が握っていた。この頃の宇喜多氏の居城は「砥石(といし)城」で、写真では石碑の後方に登城口が見えている。本丸に登ると、このような眺望を得ることができる。
砥石城から西を向いている。千町川は画面左へ流れ吉井川に注ぐ。正面の形の良い山は備前富士の芥子(けしご)山で、その左に操山山塊があり、その向こうに見えないが岡山城がある。このような風景が気宇壮大な人物を育てたのだろうか。
ところが、天文三年(1534)6月、西隣の高取山城主島村豊後守の夜討により、砥石城は落城してしまう。能家は自害、興家は直家を連れて逃亡する。直家は6歳だったらしい。父の死後は暗愚を装って生き延び、天文十二年(1543)に東備前の有力大名、浦上宗景に仕えることになった。
岡山市東区乙子に「乙子城跡」がある。城跡を背景に「宇喜多直家国とりはじまりの地」と刻まれた石碑が建てられている。岡山城築城四百年に向けて設置されたモニュメントである。
本体は乙子山、二個の台石は備前と美作、三十個の石は三十人の足軽をそれぞれ象徴しているそうだ。備前と美作は直家が手に入れた地域であり、その国盗りがここから始まったのである。三十人の足軽については、土肥経平『備前軍記』を読んでみよう。
天文十三年(1544)元服した直家は、主君宗景から邑久郡乙子村のあたりで三百貫の知行地を賜った。しかし、その地は四国の細川勢や西備前の松田勢と対峙する最前線であった。
然るに乙子村の地、敵地には隣にて、味方地は遠き所故、抱へ難く思ひて、宗景の足軽大将等、誰行きて守るべきといふ者なし。其時、三郎左衛門進み出でて、某未だ若輩なれども、乙子の辺にて、采邑を給はれば、幸に便あり。此城を、某に守らしめ給へと望む。宗景、之を老臣に議せらるゝに、皆然るべしといひければ、足軽三十人を添へて、三郎左衛門に乙子城を守らしむ。此時、直家、十六七歳の時なるべし。其大胆、是にて思ふべし。
乙子村は敵地に近く味方には遠いので、維持は難しいと思われた。宗景の家来たちは、誰一人行って守ろうとしなかった。その時、直家が進み出て
「それがし、いまだ若輩ではございますが、乙子のあたりで領地をいただいておりますゆえ、何かと便利にございまする。どうか、この城をそれがしに守らせてくださいませ」
と望んだ。宗景がこれを老臣に諮ると、みんな了承したので、直家に足軽三十人をつけて乙子城を守らせた。この時、直家は十六七歳であった。その大胆不敵さは、このことからも分かるだろう。
こうして直家の国盗りは始まった。時には正攻法で、時には策謀を弄して、東備前に確固たる勢力基盤を築き、天正元年(1573)に石山城に入城する。この石山城が、後の岡山城とその城下町に発展した。その岡山は今、交通の要衝として、中四国における拠点性を高めている。その源流には、大胆不敵な一人の若者がいたのである。
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