九郎判官(くろうほうがん)とは、源義経のことである。義経は義朝の九男であった。義朝の長男は義平、平治の乱で敗れた後に処刑。次男は朝長、平治の乱に敗れた後に自害(あるいは父により刺殺)。三男は頼朝、鎌倉幕府を開く。四男は義門、平治の乱後に戦死か。五男は希義、本日の主人公である。
ちなみに六男は範頼、源平合戦で活躍するが、頼朝に疑われ殺害。七男は全成、僧侶だが二代将軍頼家に疑われ殺害。八男は義円、平氏と墨俣川で戦い討死。九男義経はご存じのとおりだ。あまりにも過酷な人生の兄弟である。
南国市東崎の市立鳶ケ池中学校前に「希義の鞍掛けの岩」がある。岩は埋まっているらしい。
平治の乱を生き延びることができたのは、9人の男子のうち、三男頼朝(伊豆蛭ヶ小島へ配流)、五男希義(土佐介良へ配流)、六男範頼(遠江蒲御厨へ隠棲)、七男全成(出家)、八男義円(出家)、九男義経(鞍馬寺へ)の6人であった。このうち、範頼や義経が源平合戦で頼朝を支えて活躍したのはよく知られているが、希義もまた挙兵していたのである。説明板を読んでみよう。
平治の乱(一一五九年)で源家棟梁源義朝は武運つたなく平家棟梁平清盛の前に屈し頼朝(当時十三才)は伊豆蛭ヶ小島へ、義経(当時一才)は鞍馬へ押し込められます。当時三才の源希義は高知市介良の地へ配流され平家方監視の下、二十数年間の隠忍自重の墓らしを強いられます。
寿永元年(一一八二年)九月二十五日希義ニ十五才の頃、兄頼朝の旗上げに呼応するも初戦に破れ土佐における数少ない源氏方武将夜須七郎行家を、ひいては鎌倉の兄頼朝を目指し東走するも途中馬をのりつぶし遂にこの地で平家方追捕の手にかかる。
この岩は希義が愛馬の鞍をおいたとの伝承がある。希義はこの「鞍掛けの岩」の東側鳶ヶ池中学校正門附近で首討たれますが、平家威光を恐れ遺体は放置されていましたが僧琳猷は遺髪をとり遺体を荼毘に付し手厚く葬ります。
源希義公を顕彰する会
兄頼朝が挙兵したのは治承四年(1180)で、寿永元年(1182)には関東をほぼ平定していた。弟希義は兄を助けるべく挙兵し、源氏方の夜須行家と連携しようとしたものの、力及ばず討たれてしまう。それが、この中学校の門前だという。
夜須行家と琳猷は生き延びて、その後も源氏政権樹立に向けて奔走した。では、希義のレーゾンデートル(存在意義)とは何なのか。軍事的には何ら貢献しているわけでない。歴史的にも忘れ去られた存在である。それでも、兄頼朝は心動かされたのではないか。鼓舞されたのではないか。それは、血の絆を持つ者のみができることなのである。
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