「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」は、石田三成にはもったいないほどのすばらしい家臣と城をうたった俚謡である。家康バージョンもあって「家康に過ぎたるものが二つあり 唐(から)の頭(かしら)に本多平八」という。こちらはヤクの毛で飾られた珍しい兜と本多忠勝を指している。忠勝は昨年の大河『真田丸』で藤岡弘が演じ、強烈な印象が残っている。
武蔵岩槻(いわつき)にはもったいないほどと称賛しているのが「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯(なんか)と時の鐘」である。南柯はのちに藩校となる塾を起こした儒者、時の鐘は今も鳴らされている時報である。
そして、備中鴨方(かもがた)にもったいないほどのものは、三つもあるという。
浅口市鴨方町鴨方に「西山拙斎の墓」がある。「拙斎西山先生之墓」と刻まれ、脇には「贈正五位」の碑もある。亡くなったのは寛政十年(1798)、正五位が贈られたのは大正八年である。
お墓は先生の人柄そのままに慎ましいものだが、手前の顕彰碑の大きさは先生の功績を表している。「西山処士之碑」とあるが、処士とは仕官しない在野の人を指す。この碑は柴野栗山撰文、頼春水題額、頼杏坪書である。栗山は寛政異学の禁を進言した儒者、春水は頼山陽の父、杏坪は山陽の叔父という有名な儒者三人が関わっているので「三絶の碑」と呼ばれている。
大きな顕彰碑が造られたり贈位されたりと、すごい人だということが分かるが、いったい何がすごいのだろうか。碑文には次のように刻まれている。(読み下し文は鴨方町教育委員会『西山拙斎』より)
然れども忠孝信義の事に遇へば賞激感嘆、言、涕と倶に下る。一たび俗を敗り、聖を非るの言を聞けば、輙ち世を憤り食を忘れ、辨駁して餘力を遺さず。其の邦彦に勧めて学禁を立て、赤松鴻と学術を弁じ、…
邦彦とは柴野栗山であり、栗山が異学の禁を建議した背景には、拙斎の強い勧めがあったのだ。異学の禁に反対した赤穂藩儒の赤松滄洲に対しては、次のように主張している。
それ学の正あり邪あるは、猶ほ物の真贋あり、事の可否あるがごときなり。
また、あの本居宣長が儒者を批判したことに対して、次のような歌を詠んで言い返した。
反感歌(旋頭歌)
おのか身にかゝるも知らて聖の道をのゝしるは天に向ひて唾はくかも
これほどまでに強い思いを抱いて世を正そうとしていた。拙斎の開いた「欽塾」には遠近から多くの門弟が集まり、世人からは「関西の孔子」と評されたという。
浅口市鴨方町鴨方、拙斎の墓とは神社を挟んで反対側に「田中索我の墓」がある。
索我は画家で、拙斎と親しくしていた人である。京にいた頃には仙洞御所のために絵を描き、寛政元年(1789)に「法橋(ほっきょう)上人位」を授けられた。これはもと僧位で「法印大和尚位」「法眼和尚位」に次ぐ位であるが、この時代には絵師や仏師にも与えられるようになっていた。索我の作品には浅口市指定の文化財も2点ある。
浅口市鴨方町鴨方の鴨神社の参道に「宮の石橋」がある。
同じように反らせた6枚の石を組み合わせて太鼓橋としている。橋の下は川ではなく道になっているので、その絶妙な造りをじっくりと観察できる。石橋が架けられたのは江戸後期のことらしい。
このように備中鴨方は地方の陣屋町とはいえ、情熱の儒者と腕利きの絵師がおり、そして雅な石橋がある。これを称えて人々はこう謡ったという。
「鴨方に過ぎたるものが三つある 拙斎・索我・宮の石橋」
これら鴨方三奇は地域の誇りとして末長く語り継がれるに違いない。冒頭で紹介した「過ぎたるもの」も含め、必ず人が顕彰されていることに注目したい。左近と平八はリーダーを支えた優秀な部下であり、南柯と拙斎は地域に貢献した教育者だった。このことは、中央政治にしろ地方創生にしろ、人材育成が不可欠であることを示唆しているのではなかろうか。
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