英国のヘンリー王子がアメリカ人女優メーガン・マークルさんと婚約した。米国からは時々このようなシンデレラ・ガールが現れる。最も有名なのはモナコ大公妃となったグレース・ケリーだ。日本人には縁遠いロイヤル・ウェディングだが、国際的な玉の輿に乗った女性は確かにいる。本日紹介するモルガンお雪である。
神戸市須磨区一ノ谷町二丁目に「モルガン灯籠」がある。
現在もメガバンクとしてアメリカに君臨するJPモルガン・チェース銀行の源流は、ジョン・ピアポント・モルガンという資本家にある。金融、鉄道、鉄鋼などで大成功を収め、財閥を形成した。そのモルガン氏の甥にジョージ・デニソン・モルガンという御曹司がいた。
ジョージがお雪と出会ったのは、彼が傷心旅行の途中で日本に立ち寄り、京都で遊んだ明治34年のことである。お雪に惚れこんだジョージは何度も来日して口説きに口説き、同37年についに結婚にこぎつけ、横浜の米国領事館で式を挙げた。
アメリカのニューヨークで生活を始めたものの、社交界から好奇の目で見られるばかりで、二人にはつらい日々が続く。そこで、ジョージはお雪を連れてフランスに渡り、ブローニュの森近くで新しい生活を始めた。
その後、お雪は夫婦で何度か来日している。明治43年から翌年にかけて一年ほど須磨の「異人山」に滞在し、お雪の母親とともに三人で暮らしたという。本日紹介している灯籠は、この時のものである。説明板を読んでみよう。
この一対の灯籠はモルガンユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキで、明治三十七年日露戦争の始まる直前にアメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに熱望され国際結婚した人。)がこの辺りが異人山とよばれた頃この東に住んでいた。信仰心のあついユキは宗清稲荷・安徳宮の社前に二基の石灯籠を献納した。一基に加藤コト、モルガンユキと母子の名を並べて刻み、一基は明治四十四年九月十日と刻まれている。
平成十三年(二〇〇一年)史跡保存会
大正4年にジョージに先立たれてしまうが、お雪はその後も長くフランスで暮らした。帰国したのは欧州情勢が不穏になった昭和13年である。京都で余生を送り、昭和38年に亡くなった。
その激動の前半生には、多くの人が関心を寄せ、やっかみから悪しざまに言われることも多かった。しかし私には、運命から逃げず、自らの置かれた状況に真摯に向き合う生き方に見える。彼女を支えていたのは、灯籠が示すように篤い信仰心だったのかもしれない。
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