仕事で立往生することはよくあるが、本来の「立往生」は、立ったまま死ぬことである。弁慶は義経を守るため衣川で獅子奮迅の働きをし、全身に矢を受け敵を睨み据えながら、立ったまま死んだという。世にいう「弁慶の立往生」である。
「死んでもラッパを口から離しませんでした」で知られる木口小平は、日清戦争で亡くなった。「喇叭放たず握りつめ 左手(ゆんで)に杖つく村田銃」と軍歌「喇叭の響」で歌われたように、生ける姿のまま死ぬイメージは軍国美談を盛り上げた。
現代のサスペンスドラマでも、撃たれた人がすぐには倒れないことがよくある。壮烈な死を描こうとするとき、立往生は演出として効果的なのである。
浅口市鴨方町六条院西に「頓宮(はやみ)又次郎宝篋印塔」がある。
あまり知られていないが、『太平記』に登場する人物である。さっそく鴨方町教育委員会・鴨方町文化財保護委員会による説明板の前半を読んでみよう。
此の墓に祀られている人は頓宮又次郎入道と云って、かつての六條院西村龍王山城主で、元弘の変に際しては、赤松円心則村の軍に加わって抜群の戦功があった。
元弘三年(一三三三)四月三日の京の市街戦において子息、孫三郎等と共に奮戦して戦死を遂げた。このことを太平記では長文で劇的に載せている。
後醍醐天皇が船上山で旗揚げをしたのは、元弘三年(1333)閏2月28日のこと。足利高氏が天皇方として丹波で挙兵するのが4月29日。4月3日の時点では、赤松円心が反幕府軍の主力として、六波羅探題を攻略しようとしていた。円心の軍に加わっていた精鋭4人が名乗りを上げる。『太平記』巻第八「四月三日合戦事附妻鹿孫三郎勇力事」より
「備中国の住人頓宮又次郎入道、子息孫三郎、田中藤九郎盛兼、同舎弟弥九郎盛泰と云者也。我等父子兄弟、少年の昔より勅勘武敵の身と成りし間、山賊を業として一生を楽めり。然に、今幸に此乱出来して、忝くも万乗の君の御方に参ず。然を、先度の合戦指たる軍もせで、御方の負したりし事、我等が恥と存ずる間、今日に於ては、縦御方負て引とも引まじ、敵強くとも其にもよるまじ、敵の中を破て通り、六波羅殿に直に対面申さんと存ずるなり」
「我らは備中国の住人、竜王山城(浅口郡)頓宮父子の又次郎と孫三郎、矢倉城(上房郡)田中兄弟の藤九郎と弥九郎である。ちっちゃな頃から悪ガキで、これまで山賊として暮らしてきたところ、乱が発生したので、天皇にお味方することとした。ところが、この前の合戦でたいした戦いもせず味方に負けたことは我らの恥である。そこで、このたびはたとえ負けても絶対に引かないし、敵が強くともそんなことは問題ではない。敵中突破して六波羅探題の北条仲時殿にじかに対面させていただこう」
これを聞いた幕府方の島津忠信(越前家)は「たとひ力こそ強くとも、身に矢の立たぬことあるべからず。たとひ走ること早くとも、馬にはよも追つかじ」と手勢を奮い立たせ、金棒を振り回して近付く田中兄を矢で倒した。田中弟は兄に駆け寄り、刺さった矢を抜き捨て、次のように言った。
「君の御敵は六波羅也。兄の敵は御辺也。余すまじ」と云儘に、兄が鉄棒をおつ取振て懸れば、頓宮父子各五尺二寸の太刀を引側めて、小躍して続いたり。島津元より物馴たる馬上の達者、矢継早の手きゝなれば、少も不騒、田中進で懸れば、あいの鞭を打て押もぢりに、はたと射。田中馬手へ廻ば、弓手を越て丁と射る。西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也。去程に、島津が矢種も尽て、打物に成らんとしけるを見て、斯ては叶はじとや思けん、朱雀の地蔵堂より北に控へたる小早川二百騎にて、をめいて懸りけるに、田中が後なる勢ばつと引退ければ、田中兄弟頓宮父子、彼此四人の鎧の透間内冑に、各矢二三十筋被射立て、太刀を逆につきて、皆立すくみにぞ死たりける。見人聞人、後までも惜まぬ者は無りけり。
「天皇の敵が六波羅探題なら、兄の敵はお前だ。逃がさんぞ」と言い、兄の金棒を手につかんで敵に向かうと、頓宮父子はそれぞれ五尺二寸の刀を隠すように持ち、小躍りして田中に続いた。島津は騎馬で矢を射る達人なので少しもあわてず、田中が向かってくれば、鞭を打って馬を返しながら射る。田中が右に回れば、左から馬越しに射る。西国の剣の達人と北国の騎馬の達人とが、押しつ押されつしながら手助けなしで戦った。前代未聞の見ものである。そうこうしているうちに、島津の矢がなくなり、刀での勝負になりそうになった。これではまずいと思い、朱雀の地蔵堂(京都市下京区朱雀裏畑町)の北に控えていた小早川勢二百騎が大声を出してかかっていくと、田中のうしろにいた味方が、ぱっと引き下がってしまった。ついに田中兄弟と頓宮父子はそれぞれ、鎧の隙間に矢を二三十射立てられ、刀を地面に突き立てて、みな立ったまま死んだ。見る人聞く人、後々まで惜しまぬ人はいなかった。
頓宮又次郎ら赤松軍の精鋭4人は、壮烈に立往生したのである。結局、この戦いでは六波羅探題を落とすことはできず、高氏挙兵後の5月7日まで持ち越されることとなる。
さて、頓宮という名字は今も各地にあるが「とんぐう」と読む場合が多い。又次郎父子の場合、「はやみ」と読むところから新たな伝説が生まれた。説明板の後半を読んでみよう。
この印塔は古来「頓宮さま」といって里人の崇拝してきた墓であり「はやみ」が「歯病(はやみ)」に通じるところから歯痛にご利益があったと伝えられている。
宝塔は壊れ、惜しいことに相輪を失っているが、笠四隅の隅飾突起も垂直に近く、塔身も短かいなどからして中世末期の形式を遺している。塔身の正面には、宝生(ほうしょう)如来の仏像がある。
このブログでも「歯痛に効く観音様」と「歯神様となった南朝忠臣」で歯痛に御利益があるパワースポットを紹介した。歯痛のポーズだとか、歯噛(はがみ)が歯神(はがみ)だとか、はたまた頓宮(はやみ)が歯病(はやみ)だとか、よく言えば掛詞だが、おやじギャグのようでもある。しかし、歯痛は有無を言わせぬ苦痛であり、神仏にすがりたい気持ちは私も痛いほど分かる。
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