『風立ちぬ』というと誰もがジブリのアニメを思い起こすだろうが、私にとっては松田聖子のヒット曲である。大瀧詠一らしいスケール感がいい。もっと昔の方なら堀辰雄の文学作品だろう。
肺結核の療養をしていた堀の作品は「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句に由来している。風が吹いた。さあ、生きよう。命あるかぎり…。死と隣り合わせで生活しているのは、何も結核療養所に限ったことではなく、実のところ私たちもそうだ。
自らの生と死に向き合う療養は、文学とけっこう近しい関係にある。本日は須磨で療養を始めた正岡子規を紹介する。
神戸市須磨区須磨寺町四丁目の須磨寺境内に「正岡子規句碑」がある。
正岡子規は日本新聞社に入社し、明治28年春には日清戦争の従軍記者として大連近くの金州や旅順を訪れた。金州では森鷗外や旧松山藩主家の久松定謨(さだこと)に会っている。金州に句碑が残る「金州城にて 行く春の 酒をたまはる 陣屋哉」は、久松伯爵の陣中に招かれた時の感慨を詠んだものだ。
すでに結核を病んでいた子規が大喀血するのは帰路の船中、5月17日のことである。神戸で上陸し、そのまま県立神戸病院に入院した。容体の落ち着いた7月23日から須磨保養院に移って療養し、8月20日まで滞在した。須磨保養院は今の「みどりの塔」のあたりにあった。
須磨寺の句碑に刻まれた句は、句集『寒山落木』四「夏 蚊帳」の項目に次のように収録されている。句碑に刻まれるのは、その一句目である。
須磨二句
暁や白帆過ぎ行く蚊帳の外
夜や更けぬ蚊帳に近き波の音
寝苦しい夏の夜、海岸に近い保養院で蚊帳の中にいる子規。どちらの句も光の量は少ない。一句目では、過ぎ行く船の白い帆が薄明るい中に浮かんで見える。二句目では、何も見えず波音が響くだけである。蚊帳の外に目をやりながら、子規は自らの命を思っていたことだろう。
神戸市須磨区須磨寺町一丁目の現光寺境内に「正岡子規句碑」がある。
療養する子規は、決して無聊をかこつ日々を送っていたわけではない。新聞記者として記事の執筆にいそしんでいた。新聞「日本」明治28年9月7日号に掲載された「藤式部」では、須磨で読んだ『源氏物語』「須磨」「明石」を礼賛し、近頃の写実派と呼ばれる小説は、写実の点では『源氏物語』に劣っている、とまで言っている。ちなみに、藤式部とは紫式部のことだ。
この随筆の最後を締めているのが、句碑の句である。講談社『子規全集』第12巻より
かう思ひ続くるにふと窓に映る松の影もをかしくて
読みさして月が出るなり須磨の巻
「読みさす」とは、本を読むのを途中でやめること。「須磨」の巻が描く海岸の情景は、光源氏自身の感傷を映すかのようである。源氏が聞いた波の音は、子規の耳にも聞こえている。ふーっとひと息ついて顔を上げると、窓に松の影が映っている。「月が出たのか」子規は今しがた読んだ「やうやう風なほり、雨の脚しめり、星の光も見ゆるに」を思い出していた。
「藤式部」で子規は、有名な『鳥獣人物戯画』の作者とされる鳥羽僧正を例に、時代を越えて評価すべきクリエーターが存在することを指摘する。その第一人者が紫式部だとして、次のように言い切るのであった。時の流れなど無いかのように。
藤式部とは我が若き時よりの恋人なり。
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