源平合戦で平家は負けるばかりのイメージがあるが、平家勢が勝利した戦いに「水島の戦い」がある。その指揮官が本日の主人公、平清盛の五男重衡(しげひら)である。その勝利から4か月、重衡の命運が尽きる。
神戸市須磨区須磨寺町一丁目に「平重衡とらわれの遺跡」と刻まれた石碑がある。寿永三年(1184)の一ノ谷の戦いにおいて、重衡が捕虜になった場所である。
その一ノ谷の戦いにおいて、重衡は西の守り生田口に構えていた。そこへ源範頼率いる源氏勢本隊が襲いかかる。奮戦むなしく重衡は主従2騎となり、西に向かって落ち延びることとなった。
ところが、重衡を守るはずの従者、後藤盛長は裏切って逃げ出してしまう。源氏勢の武将、梶原景季と庄高家が重衡を追ってくる。この続きは『平家物語』巻第九「重衡生捕」を読んでみよう。
三位中将、敵は近付く、馬は弱し、海へ打ち入れ給ひたりけれども、そこしも遠浅にて沈むべきやうもなかりければ、馬より下り、鎧の上帯切り、高紐はづし物具脱ぎ棄て、腹を切らんとし給ふ処を梶原より先に、庄の四郎高家、鞭鐙(むちあぶみ)を合はせて馳せ来たり、急ぎ馬より飛び下り、「正なう候ふ。いづくまでも御供仕らん」とて、我が馬に掻き乗せ奉り、鞍の前輪に締め付けて、我が身は乗替に乗つてぞ帰りける。
重衡は万事休すだった。敵は近付いているし、馬は弱っている。海に乗り込んだが、遠浅で沈むこともできない。そこで馬から降り、鎧の上帯を切って高紐をはずし甲冑を脱ぎ捨てて、腹を切ろうとした。そこへ梶原より先に庄四郎高家が馬に鞭打ってやってきた。急いで馬から降りて「なりませぬ!私がどこまでもお連れいたしましょう」と言った。そして高家は、重衡をかついで馬に乗せて鞍の前輪にしばりつけ、自分は代わりの馬に乗って味方の陣へ護送した。
こうして重衡は捕虜となってしまうのだが、ここ須磨には、次のような住民とのふれあいがあったという伝説がある。説明板を読んでみよう。
平重衡とらわれの松跡
寿永三年(一一八四)二月七日源平合戦の時生田の森から副大将平重衡は須磨まで逃れて来たが源氏の捕虜となり土地の人が哀れに思い名物の濁酒をすすめたところ重衡はたいそう喜んで
「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ」
の一首を詠んだ
のち鎌倉に送られ処刑された
思わぬもてなしに重衡は、心も体も温まったことだろう。説明にあるように、重衡は鎌倉に送られ源頼朝に面会し、堂々とした振舞が気に入られたため厚遇を受けた。ところが平家滅亡後の元暦二年(1185)6月、興福寺ら南都大衆の強い要求により奈良に送られ斬首されてしまう。
なぜ奈良なのか。重衡には、もう一つ勝利した戦い「南都焼討」がある。興福寺を中心とする抵抗勢力を徹底的に弾圧した。この時、奈良の大仏が焼損するだけでなく、数千人が犠牲となったという。平家滅亡の4年以上前のことである。
重衡に南都を焼き尽くす意図があったわけではなさそうだが、冬の強風にあおられて延焼したようだ。戦争は結果責任だから、その代償として処刑もやむを得ないと言えば、そのとおりだろう。戦後処理とは、かくも苛烈なのだ。北朝鮮がミサイルを撃つのも、日米同盟が先制攻撃するのも、その代償は極めて大きくなることを肝に銘じておきたいものだ。
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